#016-11>「過去と他人は変えられないんです」 

 

<Q> 

 「過去と他人は変えられないんです」、「自分が変わるしかありません」等 

 

<状況と背景> 

 こういう理屈を述べる人を幾人か知っています。クライアントにもいました。 

 これを繰り返し言ったクライアントのことを思い出します。この人には手を焼いたものでした。カウンセリングの場面で、話題が自分の過去に触れそうになると、彼はこの理屈を持ち出して、その話題を回避するのでした。過去と他人は変えられない、だから過去を見てもダメなんです、自分が変わるしかないんです、彼はそう言います。でも、そう言う彼こそ、過去からの遺物に振り回され、翻弄され、現在を毀損させているのでした。 

 

<A> 

 過去と他人は変えられない、だから自分が変わるしかない。この命題は、なるほど、筋が通っているように見えます。私も若い時期にはこういうことを信奉していました。でも、この命題は正しくなくて、むしろ背理であります。現在ではそのように考えているのですが、後にそのことを解説しようと思います。 

 今でもこの命題は一部の心理学者やカウンセラーに信奉されているようですはっきり言って知恵がない人たちだと私は思います。 

 尚悪いことに、この命題を支持する人たちが現れてしまうのですが、しばしば彼らは過去と他人に向き合わないための盾として、こう言ってよければそれらを回避する口実として、これを利用するように私は思います。 

 そんな命題は個人のカウンセリングには関係がないのです。捨ててもいい考え方であると私は考えています。 

 

解説 

 この命題の問題点は、この命題に含まれている過去や他人が、主観的な性質のものである客観的な性質のものである、その辺りの区別が明記されていない点にあると私は思います。だから、この命題を盲目的に信じる人は、両者主観と客観を混乱させてしまうのではないかと思います。 

 

 過去は、常に現在の私によって選択的に採択され、再現されるものであると私は考えます。現在の私によって過去は決まるのです。過去の出来事が何であったかは常に現在の私にかかっているのです。もし、現在の私が悲嘆に暮れていたら、私は過去をすべて悲嘆で満たすでしょう。もし、現在の私が歓びにあふれていたら、過去をすべて歓喜で満たすでしょう。過去はいかようにも変わるのです。現在の私によって私の過去は決まり、現在の私が過去のそれを意味づけ、同様にして、その過去が今の私を意味づけているのです。 

 また、未来に起こることは過去にすでに起きていることなのです。歴史は繰り返すとも言われますが、これは言い換えるなら、未来に起こることは過去に経験していることであるという意味ではないでしょうか。個人のレベルでもそれは言えると思います。精神分析ではこれを反復強迫と言ったりするのですが、過去を強迫的に反復してしまう傾向が私たちには(特に神経症的な傾向が強ければ強いほど)あるのです。仮にそのような病的な意味合いを除去しても、未来は過去の再現という一面があると私は思うのです未来のどのような出来事であれ、過去の出来事の再現とか反復といった要素を含まないものはないと私は考えています。ベルグソンの言う「生の飛躍」でさえ、過去経験まったく還元されないと思われる現象でさえ、まったく過去経験と無縁であるとは私は考えていないのであります。 

 

 さて、私たちが過去は変えられないと言う時、それを言いたくなる時というのはどういう時なのでしょうか。どういう理由でそう言いたくなるのでしょうか。私が思うに、過去の何かが現在において繰り返されているからではないでしょうか。つまり、現在において反復されている過去が手に負えないと体験されているのではないでしょうか。そうであるとすれば、「過去は変えられない」というこの命題はその過去に対しての現在の無力感を表現している言葉であるかもしれません。 

もし、過去が過去に位置づけられていれば、もはや過去を変えようとも思わないかもしれないし、そのような命題さえ生まれないかもしれないのです。過去に位置づけられていない(現在性を帯びている、現在において反復されている)過去は、変えようのない妨害物として主体の前に立ちはだかってしまうのかもしれません。そして、過去のそれが変えようがないとなると、私の未来は単なる過去の反復ないしは過去の持続となってしまうでしょう。 

 従って、私の未来を変えるということは、私の過去を変えるということにつながるわけなのです。過去は変えられないと信じている人は、これからの未来も変えることができない人であると私は考えています。なぜなら、その未来は過去の反復ないしは持続にしか過ぎなくなるからであります。私たちは未来を変えることで過去を変えるのだと言ってもいいと私は考えています。それを現在が決定していくものであると私は考えています。 

 

 他人ということも同様であります。ある他者がどんな人であるかよりも、その他者を私がどのように体験しているかの方が重要なのです。その体験をしっかり見ていくことの方が、その他者がどういう人であるかを評価したり分析したりするよりも、よほど意味のあ、価値ある行為なのです。 

 私は私の中で体験されている他者を変えていくことができるのです。つまり、他人は変えられるのです。そもそも個人にとっての他者というのは常にその人の主観にて存在する存在者なのであります。こういうのは唯心論とか心理主義とか評されて、なかなか人気のない考え方なのでありますが、客観的他者というものは存在せず、我々が言うところの他者とは常に当人の心の中で体験されている他者であるということです。それが私の主観的世界において存在している他者である限り、私たちはそれを変えていくことが可能であると私は考えている次第であります。変化の主体が他者の方ではなく私の方にあるからであります。 

 もし、私の主観における他者が変わるなら、現実の私の何かが変わるでしょう。それに応じて、私が他者に与えている何かが変わるでしょう。その他者が私から受け取っている何かに違いが生まれるでしょう。そうなると、その他者はそれまでとは違った反応を私に示すようになるでしょう。それによって他者が変わることもあり得ると私は思います。 

 

 従って、私の考えでは、「過去と他人は変えられない、自分が変わるしかない」という命題は背理なのです。あり得ないことなのです。過去と他人を変えられない人は自分を変えることができないのです。現在の私が、私によって経験された過去と他人によって支えられている限り、私を変えるということは、それらを変えることに他ならないからです。 

 繰り返しになりますが、「過去と他人は変えられない」という理屈においては、その過去と他人は客観的事物として措定されているものであると私は思うのです。でも、客観的過去とか他人というものが本当に存在するだろうかと私は疑問に思うのです。過去のある出来事は私によって体験され、意味付けられているのである限り、どこまでもそれは主観的過去に属するものであると私は考えるのです。他人ということも同様です。客観的な他者は存在しているとしても、私によってその他者が経験されているのであれば、それは私の主観における他者ということになります。そして、その主観は、現在の私によって形成されているものであり、私の在り方によって左右されるものであるということであり、従って、それは変えることができるというわけであります。 

 それでは意味がないと思われる人もいらっしゃるかもしれませんが、そんなことはないのであります。過去の出来事も他者も主観的に体験されることであり、主観的に体験されていることがその人を苦しめているのであります。その人の主観的世界において経験されていること、言い換えれば心の中で経験されていることであるが故に、その人の心が変わればそれらも変わっていくのであります。その人が新しい目を持てば、その過去と他人も新しく見えてくるのであり、新しい自分が形成されるものなのであります。そこから他者の反応に違いが生まれるのであれば、これまでとは違った態度や反応を他者から引き出すようになったとすれば、それは他人を変えたことに等しいと私は考えています。 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

PAGE TOP