<T024-27>高槻カウンセリングセンター便り集(27) 

 

(本ページの内容) 

・高槻カウンセリングセンター便り:79通目~「治る人・治らない人」~創造性(3) 

高槻カウンセリングセンター便り:80通目~「治る人・治らない人」~創造性(4) 

・高槻カウンセリングセンター便り:81通目~課題解決と創造性(1) 

・終わりに 

 

 

 

高槻カウンセリングセンター便り~79通目:「治る人・治らない人」~創造性(3) 

 

 前回は「産出的創造」という概念を述べました。今回は創造性のもう一つの有り方である「調和的創造」について述べたいと思います。 

 「調和的創造」とは、自分に新しい何かがもたらされた時、それを以前から自分の中にあるものと調和させていく活動という意味であります。この調和は心的に達成されるものであり、産出的創造活動のように目に見える形では現れないものであります。 

 

 ノーベル賞を受賞するような物理化学者の体験を読むと、新しい発見をすることよりも、その発見を既存の知見と調和させていくところに苦心することがあるようであります。つまり、新しい何かが発見されたけれど、それがこれまでの知識と嚙み合わないのであります。新発見も正しくて、これまでの知識も正しいものであるとすれば、そこに調和をもたらしている何かがあるはずであり、矛盾が生じているのはその何かが見出されていないからであります。物理化学者はその何かを見出そうと努力されるのであります。『狂気と創造性』にはこのような例が多数掲載されているので、興味のある方はお読みになられるとよいでしょう。 

 私の見解は、発見よりも調和のほうに創造性が求められるということであります。調和を生み出すことは、新しい何かを発見することよりも、はるかに創造的活動であると私は考えています。 

 

 新しい何かと既存のものとの間で調和を生み出していくこと、この「調和的創造性」の方が、「産出的創造性」よりも、カウンセリングや心理療法において重要であります。 

 「治る」とは、その人の心に新しい何かが生まれていくことでもあります。それは既存のものと相容れないものであることも多いのであります。 

 「治らない人」は、新しい何かを否定する(既存の馴染みのあるものにしがみつく)か、すべてを入れ替えるようなことをする例が多いという印象を私は受けています。 

 「治る人」は、新しく生まれるもの、新しくもたらされるものと、自分の中に既存のものと、双方を否定するのではなく、調和させていくようになるのであります。なかなかこれを言葉で説明するのも難しいのでありますが、つまり、新しい「1」と既存の「1」の二つの「1」があるのではなく、また、それらを単に「2」にするのではなく、両者を調和させて別の「1」を生み出していくのであります。その意味で「治る人」は不断の自己形成をしていくことになるわけであります。 

 ただ、調和が創造される過程は安楽なものではなく、この不調和を抱え、調和が達成されるまで当人も苦しい思いをされるのです。いわば生みの苦しみのような体験であると私は思うのですが、調和的創造を成し遂げるにはそれなりに強い自我が求められることになると思うのです。「治らない人」はその苦しみを耐えることができないのだと私は思うのですが、それは「治らない人」に創造性が欠落しているという意味ではありません。創造性はどの人にも備わっているものであります。次回以後、そうした話も展開できればと思います。 

 

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

高槻カウンセリングセンター便り~80通目:「治る人・治らない人」~創造性(4) 

 

 創造性はどの人にも備わっているものであります。このことを例証する死刑囚が知られています。死刑囚のすべてではないにしても、幾人かの死刑囚は刑の実行までの限られた時間において優れた作品を創造するのです。これほど優れた芸術家を殺していいのかというのが死刑廃止論の一つの論拠となっているのですが、これは論点がズレているように私は思うのです。 

 死刑囚が無期懲役に減刑されると、もはやその人はすぐれた作品を生み出せなくなるというのです。優れた創造性が発揮されたのは死刑を待つという極限状況のためであるようです。従って、死刑があるから優れた芸術作品を生み出したのであり、死刑がなければそのような作品は生み出せなかったということであり、死刑廃止にすると、死刑廃止の根拠の一つ(優れた芸術家を殺していいのか)を失うことになるのです。死刑廃止論者にとっては不条理な話であると私は思います。 

 それはさておき、死刑囚に特別な才能があるとも言えないと私は思うのです。むしろ、その人は自分の能力を開花させることなく生きてきたのではないかと私は思うのです。だから犯罪に手を染めることになったのでしょう。特別な能力や才能が備わっているとは言い難いように思うのですが、そういう人でも極限状況では創造性を発揮できるわけであります。だから、そういう創造性はどの人にも備わっているものであると私は信じているわけであります。 

 

 皮肉なものであります。極限状況に追い込まれないと創造性が発揮できないということは。 

 しかし、ある意味で芸術家はそういうことをしているのだと私は思います。芸術家に限らず、「治る人」もそうであると私は考えています。「治る人」は、もう後がないというところまで追い込まれる、もしくは自ら追い込んでいき、それだけに真剣に問題や病に取り組むようになるのですが、崖っぷちのようなところで起死回生されることも見られるのであります。 

 言い換えると、「治る人」は自分自身に危機感を覚えるのであり、その危機感を抱えながら取り組むのです。その危機感をごまかしたりせず、時にはそれを直視するのです。カウンセラーやその他の援助職の人は、クライアントの危機感を緩和するのではなく、それを消去するのでもなく、その危機を生きられるようにクライアントを援助するものであると私は考えています。だからラクになりたいと即席の解決に飛びつく人は「治る人」とは言えないのであります。そのような人は自ら創造性の糸口を閉ざしてしまっているのであります。 

 

 「治る人」は、その危機状況において、突破口を生み出していくのです。 

 カウンセラーは助言をしないと言う専門家もいます。そういう助言は役に立たないからだというのがその根拠なのですが、私はそうは思わないのです。しかし、一つだけそれが言える場面があると思います。それはクライアントの創造がカウンセラーの助言を超越している場面であります。 

 クライアントはどのカウンセラーも思いつかないようなアイデアを創造するのであります。クライアントはカウンセラーを超えていくのであります。クライアントにとってはまさに自分自身に関することなので、その危機感も相当なものでありましょうし、真剣にならざるを得ないのでしょう。その中で、クライアントはカウンセラーを超越するものを生み出していくのだと私は考えています。 

 

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

高槻カウンセリングセンター便り~81通目:課題解決と創造性(1) 

 

 ゲシュタルト心理学のケーラーはチンパンジーを使って有名な実験をしました。いくつかの実験が知られているのですが、一例を挙げるとこういうものです。檻の中にチンパンジーを入れ、檻の外にバナナを置く。チンパンジーはバナナを取ろうとして格子から手を伸ばすのですが、バナナは手の届かないところに置いてあるのです。チンパンジーはバナナを取ることを諦めて、檻の中に落ちている棒切れで遊んだりするのです。それで空腹を紛らわせようとしているのかもしれませんね。そして、ふと、チンパンジーに閃きが訪れるのです。チンパンジーはその棒を使ってバナナを手の届くところまで引き寄せるのです。この閃きをケーラーは「洞察」と呼んだのでした。 

 ケーラーの実験の何が新しかったかというと、それまでの学習理論(例えばソーンダイクなど)では、動物は試行錯誤を繰り返して困難な課題の解決を学習していくものであると考えられていたのに、そうではなく、「洞察」によって課題を一挙に解決するのだという点にあるわけです。 

 ケーラーの結論は私たちにも経験があるものだと思います。ふと、その課題の解決が閃くといった体験をしたことがあると思うのですが、ケーラーはそれを概念化したと言えると思います。 

 しかし、ケーラーの実験に反論した人がいました。条件反射で有名なパブロフであります。ケーラーはそのチンパンジーの先行経験を調べていないというのがパブロフの反論でありました。 

 これを追実験した心理学者がいました。人工的環境で育てたチンパンジー6頭を用いて、ケーラーと同じ実験を試みたのでした。結果、棒を使ってバナナを引き寄せることのできたチンパンジーは1頭だけで、他はそれができなかったと言います。その1頭は過去に棒切れで遊んだ経験があったのでした。従って、パブロフの言っていることの方が正しいということになるのです。 

 あくまでもチンパンジーが洞察によって課題解決できるためには、それに関するなんらかの先行経験が不可欠であるということであります。先行経験が欠けている場合、そのような洞察が生じないということであります。 

 このような結果に反論したい人もおられるかもしれません。それはあくまでもチンパンジーの話である、チンパンジーではそうかもしれないが、人間ではまた違うのではないか、とそのように思われる方もおられるかと思います。 

 実はこれを人間で実験した心理学者がいるのです。心理学者というものはありとあらゆることを実験するものだと私は思うのですが、では、人間の場合はどうだったのでしょう。分量の関係で続きは次回に引き継ごうと思います。 

 

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

<終わりに> 

 本ページでは高槻カウンセリングセンター便りの79通目から81通目までを収録しています。 

 79通目は創造性に関しての続きです。創造性のもう一つの側面である「調和的創造」と私がそう呼んでいる活動を取り上げています。これは新しい何かと既存の何かとの間で創造される調和を指しています。調和を生み出すこと、これもまた創造性であると私は考えています。 

 80通目は創造性はどの人にも備わっているという話をしています。その極端な例であるかもしれませんが、死刑囚の状況を取り上げています。ある意味では、人は極限状況では創造性を発揮できるものであるかもしれません。クライアント(治る人)もまた同じような境遇で突破口を見出していくように私は思うのです。 

 81通目では創造性と課題解決というテーマで、幾分心理学の知見を紹介しています。ケーラーの実験とそれに対するパブロフの反論、さらにその後の追試から、課題解決に至る洞察は先行経験が不可欠であるという結論であります。 

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

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