<T024-26>高槻カウンセリングセンター便り集(26) 

 

(本ページの内容) 

高槻カウンセリングセンター便り~76通目:能力・業績と地位 

高槻カウンセリングセンター便り~77通目:「治る人・治らない人」~創造性(1) 

高槻カウンセリングセンター便り~78通目:「治る人・治らない人」~創造性(2) 

・終わりに 

 

 

 

高槻カウンセリングセンター便り~76通目:能力・業績と地位 

 

 ある男性クライアントは嘆く。自分はこれだけの仕事をして業績を上げているのに、自分よりもはるかに能力のない人間が部長に収まっている、と。僕は彼の言うことを信じる。部長は能無しで、彼は部長よりもはるかに仕事もでき、能力もあると信じる。 

 

 しかしながら、この男性の間違えているところが一つある。能力とか業績とかいうことと地位との同一視である。もし、この人が、自分には能力があり、業績があるから、高い地位に就けるはずだと信じているのであれば、それは間違いである。 

 つまり、部署の全員が自分の能力を発揮して各自が業績を上げていても、その全員が部長になるわけではないのだ。部署の全員が部長になったら、それこそ部署として成立しなくなってしまう。 

 

 能力・実力主義には常にそういう問題が起きると思っておいた方がいいと僕は思う。能力・実力があっても、あるいは高い業績を上げても、地位は上がらないという問題だ。つまり、能力・実力と地位とが切り離されていないと能力・実力主義というものは成立しないのである。 

 その仕事で能力を発揮するのと同じように、部長の能力を持っている者が部長に就くというのがきっと正しいのだろう。それぞれ違った能力で評価されることになる。だから、この部長は、彼のやっていることはできなかもしれないけれど、彼よりも部長に適している人材であるかもしれないのである。そこは同じ能力で評価できないかもしれないのである。 

 

 年功序列は廃れてしまったけれど、年功序列の方がましだという部分もあるし、能力・実力主義にも利点もあれは欠点もあるものだと思う。それぞれが見えている方がいいだろうと思う。 

 また「一人一人の人が自分の実力を発揮できる社会を」などという響きのいいスローガンにも要注意だ。それは地位を保証するものではないのだ。だから、すぐれた業績を出している人が平社員であることも、場合によってはそれがパートやアルバイトの人であることもあり得るだろう。 

 実力主義は、実力と地位とが切り離されていることが大前提であるので、そこを混同してしまうとこの男性クライアントのような不満が起きてしまうかもしれない。僕には実力主義はなんらいいものには思えないのだけれどね。 

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

高槻カウンセリングセンター便り~77通目:「治る人・治らない人」~創造性(1) 

 

 「治る人」と「治らない人」との大きな違いの一つに創造性があると私は考えています。主体性と創造性の観点が「治らない人」には著しく欠けていると私は考えており、今回は創造性を取り上げることにします。 

 病とか問題というものは「発生的」に経験されるものであります。そういうものとして主体に認識されることが多いと私は考えています。しかし、それらの治癒とか解決は、「発生的」なものではなく、「創造的」なものであるというのが本項の論旨であります。 

 従って、端的に言い換えるなら、「治る人」は、単に「治る」のではなくて、創造的に「治る」のであります。 

 

 創造性とは何でしょうか。それは新たな何かを作るというイメージを持たれることが一般的に多いと私は思うのですが、そればかりでなく、新しい結合も創造性であります。つまり、二つの要素を結合して新しい要素を形成することも創造的活動であるわけです。この複数の要素がかけ離れているほど創造性が高いということになります。 

 ただし、ポアンカレが指摘しているように、「組み合わせは無限に存在するが、創造性とは役に立たない組み合わせを作ることではない、役に立つ組み合わせを作ることが大切である」、と私も思うのであります(『心理学概論』メドニック他、誠信書房より)。 

 ただ結合するだけではなく、それによって生み出されるものが人に資するものであり、高い価値を帯びるものであることが望ましいわけであります。 

 カウンセリングや心理療法における探求にはそのような意味合いがあると私は考えています。結合というのは、二つの要素の共通項を見出していく過程であり、そのためには意図的にその作業をしていくことが不可欠となります。複数の事項が結合して、新たな理解が生まれる時、いわゆる「洞察」とよばれる体験をクライアントはするのであります。従ってカウンセリングは創造的な活動でもあるのです。 

 

 創造性といったテーマは非常に幅広い内容を含むものであり、限られた分量でそのすべてを網羅することもできないので、私はここで二つの創造性だけを取り上げることにします。 

 一つは「産出的創造」と呼べるものであり、もう一つは「調和的創造」と呼べるものであります。前者は字義通り何かを産出する活動であり、後者は調和を創造する活動であります。 

 まず、この二つの創造的活動を個別に取り上げ、以後、いくつかの補足をしたいと思います。 

 

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

高槻カウンセリングセンター便り~78通目:「治る人・治らない人」~創造性(2) 

 

 カウンセリングが上手く行くと、クライアントは活動性が回復してくるので、そこで何らかの活動が生まれるのです。その際に、何かを作るという活動をする人も多いのであります。絵を描いたり、模型を作ったり、作曲したり、詩歌を作ったり、造花や園芸といった活動をするのであります。 

 フロム・ライヒマンは芸術的創作活動が治療的意義を持つことを述べています(『人間関係の病理学』)が、私も同感であります。心の病とは、その人から創造性が失われることでもあると私は考えていますので、創造性が回復しているということは、その人の心の病が克服の渦中にあると評価できるのであります。 

 クライアントたちもさまざまな形で創作するのであります。それらの創作活動は、その人が訴える問題とは直接関係がないのでありますが、彼らはそれをするようになるのであります。彼らは何かを作りたいという欲求からそれを始めるのであります。「治らない人」はそういう活動を無意味だとみなすことも多いように私は感じています。 

 ひきこもり傾向の強い人の場合、こういう活動は特に目立つのであります。一見すると、彼らの問題解決にとって遠回りのように見えるのでありますが、こういう活動が次の何かにつながるのであり、尚且つ、次の何かにつなげていくのであります。 

 しかしながら、問題解決に直接的に関与しないこのような創作活動を「逃避」と考える人もいるのです。ここでは詳述しないのですが、確かに「逃避」のような例もあるのであります。役に立つ結合が創造性であるというのと同じで、その創作活動がその人にとって十分に有益であるかどうかという観点が必要にもなるわけです。 

 

 産出的創造は、上述のように作品を作るというものばかりではありません。上述したものは「空間的産出」ということになるでしょうか。それとは別に「時間的産出」というものもあると私は考えています。 

 そもそも、私たちの人生は個々人の創造であります。一日一日を私たちは創造しているのであります。物理的にと言いますか、空間を占めるような作品を作っているわけではないけれど、日々の時間を構造化し、日々の生活を創造していると言えないでしょうか。 

 無為な日々を過ごしていた人が有意義な一日を創造するようになる例も多いのです。また、旅に出るという人もありました。それは、レジャーや観光の旅行ではなく、自分探しなどという曖昧な目的の旅でもなく、明確な目的をもって旅をした人です。綿密にスケジュールを立て、それに従って動き(つまり自分を律している)、彼にとって意味のある場所を訪れる旅だったのですが、彼は自分の旅を創造した(象徴的には自分の人生を創造しようとしていることになる)のであります。この人のような例も「時間的創造」と言えるのではないかと私は思います。 

 

 クライアントたちは「治癒」の過程において、空間的なものであれ時間的なものであれ、産出的な創造活動をするようになり、それは直接的には治癒や問題解決に資さないものであるように見えるけれど、当人にとって深い意味があるのであります。 

 

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

<終わりに> 

 本ページでは高槻カウンセリングセンター便りの第76通目から78通目までを掲載しています。 

 76通目も、シリーズ以外の、単発のブレーク的な内容です。実力主義は、実力と地位とが切り離されていることが前提としてあるので、そこを混同すると不満を高めてしまうかもしれない。 

 77通目では再び「治る人・治らない人」のシリーズを続けます。ここでは創造性という観点を取り上げています。治癒とは創造されるものであり、「治る人」は創造的に「治る」のであります。 

 78通目は創造性に続きであります。創造性は幅広いテーマでありますので、二つだけ述べることにします。ここでは産出的創造と呼べる活動を取り上げています。「治る人」はその過程において何かを産出するといった活動性を示すのであり、それは治療には直接的に関与しない活動であっても当人には意義深い体験となっていることもあるのです。 

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

 

PAGE TOP