<T024-28>高槻カウンセリングセンター便り集(28) 

 

(本ページの内容) 

・高槻カウンセリングセンター便り~82通目:課題解決と創造性(2) 

・高槻カウンセリングセンター便り~83通目:現代人の病 

・高槻カウンセリングセンター便り~84通目:過去志向と未来志向 

・終わりに 

 

 

 

高槻カウンセリングセンター便り~82通目:課題解決と創造性(2) 

 

 ケーラーの実験にパブロフが反論して、その後の実験ではパブロフの述べていることが正しいようであります。では、人間ではどうなのかということですが、これを実験した心理学者がいるので、少し述べようと思います。 

 被験者は広い部屋に入ります。天井から二本のロープが釣り下がっています。被験者に求められるのはこの二本のロープを結ぶということであります。しかし、一方の端をもって、どれだけ頑張って引っ張っても、もう一方のロープには手が届かないのであります。 

 室内には種々雑多な品物が置いてあります。正答はペンチを一方のロープに括りつけ、ペンチを重しにして振り子のように揺らすのです。もう一方のロープを手にして、振り子のように揺れているロープをキャッチすれば二本のロープを結ぶことが可能になるというわけであります。被験者の多くはこの正答に至るようであります。 

 もう一つのグループは、その部屋に入る前に対言語を覚えるという課題をしました。その対言語の中に、例えば「ロープ-揺らす」といった対を入れておくわけであります。それから同じように室内に入って、二本のロープを結ぶという課題を課せられたのであります。結果は、このグループの被験者も正答に至るのでした。 

 ただし、後者のグループの方が正答に至るまでの時間が、前者に比べて、短かったというのであります。対言語を覚えるという作業が先行経験の働きをしたわけであります。同じように正答に至るとしても、先行経験のある方が短時間で正答に至るということになるわけであります。 

 

 さて、課題解決と先行経験とは直接的に結びつかないものであります。棒切れで遊んだ経験のあるチンパンジーは、それがいつか檻の外にあるバナナを引き寄せる役に立つなどとは思っていなかったことでしょう。もし、棒切れではなく、植物の茎や根っこで遊んだチンパンジーなら、それらを使って投げ輪のようなものを作ってこの課題を解決したかもしれません。課題解決と先行経験がどのように結びつくのか、どのような先行経験がこの場にもたらされ且つ利用されるのか、そこに創造性を認めることができると私は考えています。 

 この意味で、カウンセリングは、解決の方ではなく、むしろ先行経験の方に関係していると私は考えています。先行経験を培う又は先行経験を掘り起こすことに関係しているのであります。 

 いずれ述べる予定なのですが、「治らない人」は一つの話(たいていは問題に関する話)に拘泥するなどして、話が広がっていかない傾向があり、問題と解決以外の話(先行経験がここに含まれるわけですが)を無関係なもの又は無意味なものとみなして排除することが多いのであります。つまり、この話はこの問題とは関係がありませんなどと言って、その話を排除してしまうのであります。その話の中に先行経験となるものが含まれているかもしれないのに、彼らはそのようには考えないのであります。つまり、何が問題解決に役立って、何が役に立たないかは最初から決まっていて、自分にはそれが分かるといっているようなものでありますが、これは自我狭窄によるものであると私は考えています。 

 

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

高槻カウンセリングセンター便り~83通目:現代人の病 

 

 某ラーメン店で迷惑行為を行う男の映像をテレビで見た。 

 男は、最初は普通にラーメンを食していたようだったが、胡椒を入れ、酢を入れ、食してはそれらを追加し、最後は大量の胡椒を丼に入れ、少し食した後、ラーメンを残して席を立った。 

 この男性にその他の条件(例えば泥酔しているとか、精神疾患があるとか、服薬を忘れたとか)が無い場合、僕の受ける印象では、彼の自我機能が速やかに減退して、自分の行動を統制することができなくなっている感じがする。 

 何が自我機能をそこまで減退させるのか。それはこの男性自身のことなので分からないとしか言えないのだけれど、内的情動性によるものかもしれない。つまり、不愉快であるとか、面白くないとか、そういう感情要素が内面で発生して、その感情が速やかに自我を圧倒してしまうということだ。 

 特に僕が強調したいのは、内的情動の発生から自我機能低下への急激さである。それが行動統制を失わせることになるのだが、それを食い止めることもできなくなるということである。これはこの男性に限った話ではなく、現代人の病相を表しているように僕には思えてならないのである。 

 従って、僕にはそれが症状に見えるのである。しかし、世間一般には単なる「迷惑行為」とされているのである。世間がいかに心の問題に関して無知であるかを僕は痛感する。 

 

 なお悪いことに、一人の迷惑行為がSNSなどで拡散すると、それを真似るようなのが出てくる。迷惑行為を受ける店は繰り返し迷惑行為を受けてしまう。つまり、一人の症状に加担する人間が現れるわけである。その人たちは、正常に味方するのではなく、異常の方に加担してしまうのである。僕はそう考える。 

 これが現代人の姿であるなら、僕はこの現代という時代に生きるのがつくづくイヤになってくる。 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

高槻カウンセリングセンター便り~84通目:過去志向と未来志向 

 

 僕の感覚では、時間は流れていくものではなく、積み重なっていくものだ。前に進むのでも、前を向いて進むという感覚ではなく、後ろ向きに前進している感じがある。ちょうど、列車の最後尾から景色を眺めるような感覚だ。そこでは、視野の外から風景が現れ、前景となり、遠のいていく。先頭車両から眺めるように、遠くにあるものが徐々に見えてきて、流れていくのとは対照的な感じがある。 

 そういう感覚を持っているので、どこに向かうかということよりも、どれだけ来たかということを僕は見てしまう。蓄積されたものを見たくなる。僕のブログもそうだし、この便りもそうだ。積み上げていきたい気持ちが強い。 

 

 僕のような人間は過去志向なのだろう。自分でもそう思う。だけど、どうも過去志向というのは人気がない感じがする。未来志向は素晴らしく、過去志向はそれより劣ると評価されていると思う時がある。 

 過去志向も未来を見据えているのである。ただ、未来志向とはその見方が違うだけだと思う。未来に素晴らしいことが待っているという感じではなく、過去の素晴らしいものを未来において再体験したいという感じである。未来に夢を託している点では同じだと僕は思っている。 

 極端な表現をするけれど、未来志向は過去に素晴らしいものが何もなかった人たちだという気もする。だから未来だけを見たいと願うのかもしれない。過去志向は、過去に素晴らしいものを経験しているのである。それが現在において失われており、いつかそれの再来を期待するのだ。 

 だから、僕は思う。未来志向の人は一度生まれで十分な人たちなんだ、と。過去志向の人は二度生まれ、三度生まれしたい人間なのだ、と。かつて歩んだ道のりを、もう一度歩みなおし、かつての生をもう一度辿りなおす人間なのだ。両者は生き方が異なることになるが、過去志向の生き方とはそういうものだと僕は考えている。 

 ただし、かつての生をもう一度辿りなおすとか、生きなおすとか言っても、過去のものをそのまま再現するのではない。過去に経験したことを生きなおすと同時に、過去にはなかったものがそこに加わる。それはその人の発展によるものだ。 

 僕は今、僕が20代後半から30代前半頃の生活を再体験している。もう一度あの過程をやり直したいと思っている。あの時、疎かにしてきたものを今度は疎かにしない。あの時やり残したことを今度は達成したい。今、僕はそんな思いで毎日を生きているよ。 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

<終わりに> 

 82通目は81通目の続きとなっています。人間の場合でも、課題解決の際に、先行経験の有無が要因として働いているのであります。カウンセリングとは、この観点に立脚すると、先行経験の掘り起こしのような作業とも言えるのであります。「治らない人」はその作業を無価値なものとしてみなすことが多いように思います。 

 83通目はノンシリーズの番外編のような内容です。内的情動から一気に統御不能に陥ってしまう、それが現代人の心の病の在り方であるように私は思うのであります。一旦、心の中で不愉快な感情体験が生起すると、そこからなし崩しに壊れてしまい、食い止めることができないのです。 

 84通目はこの便り集の最終回であります。一年間続けるという目標を掲げ、その一年が来たからここで終わりという感覚であります。なんの計画性もなく始めたものでしたが、それなりにいろんなことを考え、記述する機会になったと思います。こうして84通の便りを蓄積できたことに喜びを感じるのも、僕の過去志向のなせる業なのでしょう。 

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

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