<T024-21>高槻カウンセリングセンター便り集(21)
(本ページの内容)
・高槻カウンセリングセンター便り:61通目~悪化する人たち(4)
・高槻カウンセリングセンター便り:62通目~2023年の再開
・高槻カウンセリングセンター便り:63通目~所有は悪徳ならず
・終わりに
高槻カウンセリングセンター便り:61通目~悪化する人たち(4)
カウンセリングや心理療法を受けて、却って悪化してしまうという人たちの考察を続けます。成功することに対する恐怖感や罪悪感が強いという人たちのことをまずは取り上げています。
こういう人たちは、しばしば不幸な親、苦労した親を持っていることが多いという印象を私は受けています。そのため、自分が親よりも幸福になっていいのだろうか、親と同じくらい苦労しなければ成功してはいけないのではないかといった感情をどこかで有していることもあるように思います。ある意味では心的に親離れできていないということになるのですが、それはさておくことにしましょう。
また、親が非常に妬み深くて、成功している人のことをやたらと非難するとかいった場合もあるように思います。そのため、自分が成功したら親が今度は自分を非難するようになるのではないかといった恐怖感が生まれるように思います。いずれにしても、やはり心的には親離れできていないということになると私は思うのです。
さらに、不思議に聞こえるかもしれませんが、子が成功したら叱責するという親もいるのであります。子が一つ成功しても、さらに上を求める親であるのです。この子は成功を喜んでもらったことがなかったりして、成功体験が悪い体験と連合していることもあるように私は思うのです。
性格傾向はすべて形成されていくものなので、成功に対して恐怖感や罪悪感を強く持つ傾向もやはり形成されてきたものであります。この人たちの治療とは、その傾向を別のより望ましい方向へと水路づけていくことになるのであります。そういう意味でも新たに自己形成していかなければならないということになるわけであります。
ところが、治療の場で彼らは自分の有するその傾向を発揮してしまうのであります。もう少しで上手くいくというところで中断したり、苦労して達成してきたところで「病気」になったりするのであります。
しばしば、こういう傾向の人の中には、最初のうちは治療が順調に進むことがあります。すごくいい調子で改善が見られてきているのに、良くなってきたところで悪化してしまうのであります。本当に些細なことでこの転化が生じるのであります。
こういう傾向の人にとって、失敗することは、失敗ではなく、問題を処理する一つの方策になってもいるのであります。不安や恐怖感、罪悪感を処理する手段として失敗があるということになるわけであります。カウンセリングや心理療法の場面においても、彼らは自分に馴染みのある方策を取ってしまうわけであります。
さて、まだまだ述べ足りないところがたくさんあるのですが、ここで一区切りつけたいと思います。成功に対する態度についてはここまでにして、私たちは次のテーマに移っていくことにします。次は「権威」に対する態度でありますが、こちらはいささか詳細に述べる必要があるかもしれません。
(2022.11.10)
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
高槻カウンセリングセンター便り:62通目~2023年の再開
継続して閲覧してくださっている方々へ、ご無沙汰しております。
この高槻カウンセリングセンター便りも2022年の11月に投稿したきりとなっていました。12月には新しいHPが出来て、原稿復旧と製作に追われていました。そのため、「便り」の方まで手が回らない状態が続いていました。
手が回らないので、この「便り」も半ば捨てかけていたところ、多少とも閲覧してくれている人もおられるようなので、なんとか継続しようと思い直したのです。年も明けて、2023年の再開といきたいと思います。
「治る人・治らない人」のシリーズを続けていて、その一環のテーマとして「悪化する人」を現在継続中でしたね。また続きを投稿していきたいと思うのですが、少し無駄話の回を挟もうかと考えています。多少の気分転換も許してもらえるでしょう。
この「便り」は、カウンセラーはいろんなことを考えているものだなということが閲覧者にご理解いただければけっこうであります。だからいろんなテーマで綴っていこうと思う次第であります。
よく「集客」ということをHP制作会社などは打ち出します。このビジネスページでもそうであります。私はこの「便り」で集客を目指しているつもりはありません。集客ということを優先するとなかなか自由にモノが言えないと思うのです。だから、集客を目指さない代わりに自由に書かせてもらおうなどと考えているわけであります。
それに、集客はユーザーの求めているものとHPで提供できることとが一致しなければならないと思います。他の分野ならともかく、心の問題などではそれが難しいと私は考えています。そもそも、ユーザーが本当に自分の求めているものが分かっているのかどうか、そこからして疑問であります。本当に自分が何を求めているのか、どんな情報を欲しているのか、それが分かっているなら、その人はとっくに「治って」いるはずだと私は考えています。
従って、端的に言うと、「間違った」ものを求めている人に、「間違った」ものを提供して集客しても、おそらく結果は「間違った」ものになるだろうと私は思うのであります。だから、閲覧者の質問に答えることもしないし、彼らの検索するキーワードに照準を合わせることも私はしないのであります。閲覧者のニーズなど無視して、これからも書き綴っていくだろうと思います。
今後ともお付き合いくださればと思います。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
高槻カウンセリングセンター便り:63通目~所有は悪徳ならず
「治る人・治らない人」シリーズを続けてきたので、この辺りで小休止を。
幾人かのクライアントが言う。お金持ちは不幸だ、と。そういう考え方をしている人もけっこういるのかもしれない。僕はそうは思わない。
人間の幸福・不幸は所有物だけでは判断できないものだ。従って、裕福な人でも幸福な人もあれば不幸な人もいる。貧しくても幸せな人もいれば不幸な人もいる。人の幸不幸と所得は別次元のものだと僕は考えている。
確かに、人生にあらゆる価値を喪失した人にとって金銭が魅力になるということは言えるだろうと思う。文学作品でも『サイラス・マーナ―』や『クリスマスキャロル』などでそういう人物が描かれている。一方、『雨月物語』の最終話のように所有することを善とみなす思想にも僕は首肯する。
端的に言うと、所得額や裕福さで評価するのではなく、その人がどういう手段でお金持ちになったかが問われなければならないと僕は思う次第である。
人に好かれる人の店には客が集まるものであり、自然と裕福になるものだ。高い理想を持ち、奉仕の精神を持つ人のところにもお金は集まるだろうと僕は思っている。お金持ちがすべて悪人というわけではないのだ。
卑劣な手段を用いてお金持ちになる人もあるだろう。こういう人が不幸なのだと僕は考えている。
同じように、少しのもので満ち足りるという人もある。清貧主義とはこういうものだと僕は思うのだけれど、こういう人は貧しくても幸福に生きるだろう。一方で、放蕩で貧しくなる人もあるだろう。この人は貧しくて尚且つ不幸なのだ。
そういえば断捨離などといったことがブームになったこともある。あたかもモノを持つことが悪いことであるかのような印象を持ってしまう人が生まれるのではないかと僕は危惧する。
なぜ危惧するかというと、所有することが悪徳だといった信念を持っている人は、新興宗教の思う壺になるかもしれないからである。
モノを持つことは良くないことだからすべて差し出しなさいといった教えと、その人の信念とが一致してしまうのである。教条と信念との一致が大きいほどその人はその教団にのめり込んでしまい、改宗することが難しくなると僕は思う。
人が裕福になることも、お金持ちになることも、決して悪いことではないし、間違っていることでもないのだ。そのための手段や目的が悪徳である場合があるだけなのだ。悪い手段、悪い目的でお金持ちになるのが良くないということなのだ。ここを押さえておく必要があると思う。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
<終わりに>
今回は高槻カウンセリングセンター便りの61通目から63通目を収録しています。
61通目は前回までの続きであります。「悪化する人」たちの失敗に方向づけられてしまっている人たちについての考察を続けています。
62通目は年が変わって2023年に入って一本目の投稿となりました。61通目からは1か月以上空いてしまって、このページもなかば捨てかけていたのですが、もう少し継続することにしました。その仕切り直しも兼ねて、ちょっとした挨拶のページです。
63通目は、これまで続けてきたシリーズから少し離れて、息抜きの意味で少しばかり他愛もない話題を取り上げています。今回は所得とか所有に関する内容です。お金持ちは不幸であるといったステレオタイプは正しくないと私は考えていますし、断捨離が必ずしもいいものとも思っていません。所持すること、所有することは悪徳だなどと信じ込んでしまうと新興宗教の思う壺になると私は考えています。そうではなく、どういう手段で所有したかが見直されなければならないと思う。
(2023年7月)
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)