<T026-11>衰退の道(11)~物語
人が自分自身の体験や人生を語り直す時、必ず物語の形式を取る。各個人は自分特有の物語を持っている。生きるとは自分の物語を紡ぎ続けることだと言っても、あながち誤りとは言えないと僕は思う。
僕も僕の物語を日々紡いでいる。時に違った物語を求めることもある。それは文学作品や映画、ドラマなどで補うことになる。でも、それらの作品を摂取したということが、取りも直さず、僕の物語に組み入れられることになる。僕の物語の一部を形成することになる。
もし、自分の物語をしっかり形成することができなかったら、つまり自分の生をしっかり生きることができなかったとしたら、どういうことになるだろうか。僕は、その場合、物語を自分でこしらえなければならなくなると思う。要するにフィクションを作り出すというわけだ。極端な例で言えば、それは妄想である。妄想者は、妄想を持つことによって、架空の物語を手にする。
それほど極端でなければ、僕らは小さな物語を作る。その際に、動画投稿やインスタグラムなんてのはうってつけのツールになる。
バイトテロの動画を見たことのある人なら、何となくでも分かってもらえそうに思うのだけど、彼らの動画にはある種の物語性が含まれている。自分がどうしてここに働くことになり、そして、どうしてこういうことをするようになったのか、さらに今後どうなるかまで謳っていたりする。これはある種の物語を紡いでいるということなのだ。
煽り運転の映像なんかも同じである。ドライブレコーダーなんかに記録されたものを見ると、そこには煽り運転手のストーリーがあるように僕は感じる。最初に誰かに目をつける。そのきっかけは何だっていい。追い越しをしたとかクラクションを鳴らしたとか、なんだっていい。まず標的が見つかる。その標的を追う。そして何らかの対決が行われる。最後に決着が何らかの形で着く。見事に起承転結が揃っていたりする。
インスタグラムの投稿なんかも同じではないだろうか。あるお店のスイーツのことを知って、いつか行きたいと思っていた。そして、友人たちと揃って来店した。今、念願だったそのスイーツを目の前にしている。これからこのスイーツを食べます。こうした一連のストーリーが描かれていたりする。僕にはそのように感じられるわけだ。
これらの行為は、ある意味で自分の物語を、かなり意図的に作っているという行為であるように僕には映るのだが、いかがなものだろうか。
行列に並ぶということもそうではないだろうか。あの店の評判を耳にして、今日その店に行くことにした。すでに行列ができている。何時間、その行列に並んで待った。いよいよ自分の番が来て、その料理が目の前に置かれました。ここを写真に撮る。そして、食べて、感想なんかを言う。行列に並ぶということは、この物語の前提段階であって、一つの儀式である。その結末に至るまでに、行列に並ぶという過程が不可欠であり、すでにそれが物語の一部を形成しているのだ。
しかし、そのような物語は大して問題になることはない。要はその物語を常にだれかと共有したがるという点にある。過剰なほど共感を求めているように僕には見える。時には同じ物語を持つ人が現れると、それだけで安心したりする人もあるのではないかと思う。一度も会ったことのない人からの共感を求めているわけである。
ここには、一方では独自のことをやろうとしながら、他方では独自であることを拒絶しているという心理が見え隠れするように僕には思われるのだ。こういう人は、極論を言えば、何者になることもできないという人である。
バカッターの時代には、静止画だったのでストーリー性がそこにあることは感じられなかった。バイトテロ時代になると、動画である。動画になると、ストーリー性が浮き出してくる。いちいちそういうストーリーを作らなければならないのだ。それは人生(自身の物語)を紡ぎだすことのできなくなった人間であることを表現しているのではないだろうか。それが現代人ではないだろうか。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)