<T026-08>衰退の道(8)~一億総自殺時代
欲求という話が出たついでにもう一つのテーマを綴っておこう。人は様々な場面で、さまざまな状態において、さまざまな欲求を持つ。これらの欲求は相反するものもある。食べたいという欲求を持つ時もあれば、食べたくないという欲求を持つことも可能である。人間の欲求とは単純にリストアップできないものである。
生物は生きたいという欲求を持つが、やはり正反対の欲求を持つこともある。つまり死にたいという欲求である。これの実現が自殺ということになる。
かつて、メニンガーは自殺は、①死にたいという願望(欲求)、②殺したいという願望、③殺されたいという願望が揃って見いだすことができると説いた。なかなか鋭い指摘であると思う。
三つ目の殺されたい願望というのは首肯しづらいかもしれないけど、これは殺したい願望と表裏一体のものだと考えるといい。ある人が誰かを殺すとしよう。殺された被害者は加害者と同じであるか類似している何かを有していることもある。つまり、犯人は被害者の中に自分と同じものを見いだしていることもあるということで、その被害者を殺したいと願うことは自分が殺されたいと願うことと表裏一体であるわけだ。双方の願望は切り離すことができなくなるというわけだ。
余談だけど、「誰でもいいから殺したかった」といった動機を言う殺人者がある。被害者は無名で無人格性で無関係である。これはそのままこの犯人が有している傾向であるかもしれない。彼は無名の存在であり、無人格の人間であり、何者とも関係を持つことができない人間であるかもしれない。そうであれば、彼が殺したかったのは彼自身であると考えても、あながち、間違いでもないように僕は思う。
それはさておき、人間は「死にたい」という欲求をすら持つ。フロイトはこれを「死の本能」と呼んだ。もう一つ余談ながら、この「本能」という言葉に要注意だ。フロイトの言葉を翻訳すると「本能」になってしまうのだけれど、それが意味しているのはむしろ「衝動」である。衝動とは、過剰なほど強すぎる欲求であると解すれば、「死の本能」とは、死への衝動であり、欲求であるということになる。フロイトを読む時には、そのように読み替える必要がある言葉もけっこうあると僕は思う(他にも、「性的」と「性器的」といった言葉がある)。
本題に戻ろう。自殺もまた人間の持つ欲求の一つであるということだ。そして、これは誰もが持ちうる欲求である。
日本では年間3万人以上の人が自殺でその人生を終えている。3万人超えが10数年続いていたと記録されている。これがどれほどの数字であるか、一般の人(専門家以外の人ということだが)はあまり考えたことがないかもしれない。
例えば、大阪の高槻市の人口が現在30数万人である。上述の数字は10年間で市が一つ消滅したに等しいということを示しているわけである。それも自殺によってである。
しかし、近年、年間自殺者が3万人を下回っているというデータが公表されている。それだけを見ると、なんとなく、自殺者数が減ったように見える。でも、そこは要注意である。
結論を言えば、これは自殺者数が減少したのではなく、自殺をカウントする方法が変わったためであるかもしれない。かつては状況から見て自殺であると判断されれば自殺として数えられたのだ。現在では自殺を示す明確な証拠(遺書など)がない場合、自殺に数えないということになっている。従って、自殺者が減ったのではなく、自殺者としてカウントされるケースが減ったに過ぎず、その分、不審死などが増えているかもしれないのである。
従って、自殺者数は現在においても3万人を超えていると僕は信じている。
よく言われるのは、自殺者数3万人というのは、自殺に「成功」した人の数であり、それに「成功」しなかった人(つまり自殺未遂者)を含めると膨大な数になるだろうということだ。確かに、自殺完遂者よりも自殺未遂者の数の方が圧倒的に多いかもしれない。
しかし、自殺を「自己の生を放棄すること」と定義すれば、この定義に該当するのは自殺者や自殺未遂者だけにとどまらなくなる。定義上では自殺者とみなされる非自殺者も数多く存在すると僕は思う。その意味で、現在は一億総自殺者の時代とみなすこともできるのではないかと思う。
(付記)
自殺に関するメニンガーの理論に関しては『おのれに背くもの』(日本教分社)を参照。同書は、古い本ではあるが、自殺の問題に真正面から取り組んだ精神分析的研究で、殉死や頻繁に自己に遭遇すること、外科手術をやたらと受けたがることなども自殺の一環として捉えている。機会があれば一読されるとよい。自殺に対する考え方、見方が変わるかもしれない。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)