<T026-04>衰退の道(4)~理性の喪失 

 

 1950年頃、アメリカで一つの事件があった。それはバスの運転手が起こしたものだ。この運転手は、バスを運転して、そのまま会社に戻らず、遠乗りに出かけたのだ。幸い、乗客はなかったということなので、おそらく、回送車だったのだろう。勤務を終えて会社に戻る途中のことだったのかもしれない。 

 遠方で彼が発見された時、彼は「自分は毎日決まりきったコースを走るのにウンザリしていた。それで違う道を走ってみたくなった」といった言い分を公表した。ニューヨークの市民たちの中にはこの運転手に共感を示す人も少なくなかったという。そして、バス会社が今後このようなことをしないと約束すれば刑事事件にはしないと彼に告げた時、市民たちはこの会社に喝采を送ったそうだ。 

 この運転手の訴えていることは確かに理解できる。人は機械のように毎日同じことを繰り返すことに耐えられないものである。また、おそらくだけど、彼が一線を越えるまでには彼の中で相当な葛藤があったろうと思う。無人バスで遠乗りしたというところに僕は葛藤の痕跡を感じる。 

 いずれにしても、この運転手のテロ行為(と呼んでおこう)は、彼の感情や主張と一致したものであることは理解できる。もちろん、そうした行為は良くないことであっても、彼のその行為は、彼の状況を考慮すると、理解できないものではない。多くの人が共感したということは、自分も同じような経験をしているとか、自分も彼の立場だったら同じようなことをしてしまうかもしれないと考えたのではないかと僕は思う。 

 21世紀のバカッターやバイトテロにはそれが欠けているのだ。何かを訴えるのではないし、そこには何の思想も感情も感じられない。彼らに何らかの主張があるとしても、その主張とテロ行為とに適合性を見いだすことができない。僕はそのように思う。 

 つまり、思想もなく、主張もなく、ただその場限りの何かに動かされている人形のようなイメージが僕にはあるのだ。彼らから見いだすのは空虚だけである。あまりにも空虚な空洞しか見いだせない。僕はそのように経験している。どこにも共感できる要素がないのだ。 

 食材で遊ぶことは、彼らが訴えたいことと一致しているのだろうか。もし、一致しているとすれば、それは何を表現しているのだろうか。自分たちが遊び、汚した食材をお客さんが口にする。それが面白いのだろうか。そこに僕が見出すのは、客に対する無関心、つまり人間に対する無関心である。あまりにも無関心なのだ。 

 この無関心さに僕は背筋が凍る思いがする。煽り運転なんかの問題もやはり同じだ。同じ人間に対する無関心なのだ。この無関心が同種内闘争を容易にするのかもしれない。 

 こうした問題は「自己中心的」という問題にすり替わってしまうこともある。そういう行為をする人間はあまりにも自己チューだというわけだ。確かに自己中心的といえばそうなんだけど、他人に無関心だから自己中心的にならざるを得なくなるように思うので、両者は表裏一体といったところである。 

 しかし、自己中心的であることよりも、人に対する無関心さの方が問題は大きい。「自己中心的」というのは誤解を招きやすい表現である。いい意味での「自己中心的」もあるからである。例えば、価値のある目標や自分が設定した理想のために自分に没頭しているというような人は、見方によっては、自己中心的と言えるのだけど、その自己中心性は創造や向上に導かれているのである。 

 自分たちだけで浮かれ騒いでいるという状態の時も、その当事者たちは自己中心性に支配されていると言えるかもしれない。もちろん、たまに羽目を外すくらいのことで目くじらを立てようなどという気は僕にはない。人間、たまにはそういう場面も必要ではあろう。しかし、バイトテロの行為はどこかそれから外れているのだ。羽目を外しているという観念からはみ出しているのだ。 

 おそらく、それらの行為が了解不能であるという点にその因があるだろうと思う。羽目を外している人も見ても、それに共感できる範囲のものであれば僕たちは許容できるものである。バイトテロ行為は共感不能なのである。だから羽目を外しているといった程度の範疇に収まらないものであるように僕には感じられている。 

 いや、そんなことはない、彼らの行為は了解できると反論する人もあるだろう。彼らは単にSNS上で目立ちたいだけだ、と。だから彼らの行為は了解できると、そのように思う人もあるだろう。しかし、仮に目立ちたいという願望が彼らにあるとしても、そこからどうしてあの行為が生まれるのか、その願望とその行為との連関は了解できないのではないかと僕は思う。 

 

 少し内容が混乱してしまったな。要するに、人間に対する無関心に加えて、ここでは理性の喪失を僕は取り上げているわけだ。理性の喪失のために、彼らの言動が了解しにくくなると僕は思っているわけだ。 

 冒頭に挙げたアメリカ人のバス運転手を見てみよう。彼の行為は逸脱行為である。現代ならテロ行為と言われかねない行為である。しかし、その逸脱行為の中に、僕たちは何らかの理性を認めることができる。僕たちとその運転手の間には連続性を認めることもできる。同じ人間として共通しているものを認めることができる。現代のバイトテロにはそれが無いのである。 

 

(付記) 

 冒頭のバス運転手のエピソードは、ロロ・メイ著『失われし自我を求めて』(誠信書房)に記載されているものである。現代で言うところのバイトテロに該当する行為として理解することが可能だと思うので、引用させてもらった) 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

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