<T010-02夢の旅(2) 

 

 

(夢5)「テスト勉強の夢」 

(夢6)「倒産した社長と大学で会う夢」 

(夢7)「テレビを見ながら歩く夢」 

(夢8)「甘いパンと銀歯の父の夢」 

(夢9)「肩の重圧感と兄の嫉妬の夢 

 

 

11月22日(21日~22日) 

(夢5)「テスト勉強の夢」 

一人で勉強している。テストを目前に控えている。黙々と勉強している。このテストが終われば、みんなで遊びに行こうと誘われている。 

 

(連想と感想) 

 全体的に淡々とした夢だった。前回のように激しい場面も展開されず、机に向かっているという、どちらかと言えば動きの少ない「静的」な夢だった。 

テストとは、「自分を試されるもの」というイメージがある。それはまた、自分の今の状態を知ること、自分の実力の程度や、進歩の度合を示してくれるものでもある。時には、自分の思い込みを粉砕されることもあるが、今の自分がどの辺りに位置しているかを教えてもくれる。夢では、このテストはまだ終わっていないのである。これから始まることになっている。 

 テストと言えば、高校生くらいの頃にテストが好きでたまらなかった時期がある。苦手な科目でも、テストが終われば、一段落ついたように感じられた。大人になるに従って、こういうテスト勉強をする機会が減ってくる。節目を作る機会が減ってくるということでもあるようだ。 

 夢の中の、テストを受けるというのは、自分の現在の状態を知ることであると同時に、一つの節目を作る必要があるということかもしれない。 

 また、自分をテストするというのは、自己懲罰の意味合いも感じられる。(夢4)における海軍士官のように、「超自我」イメージを私は抱く。 

 これまでの夢でもそうであったが、何かをする時は基本的に一人である。現実の生活においても、私は一人で動く方が好きである。夢にも私のこうした傾向が反映されているようである。この夢では、テストが終わればみんなで遊びに行こうと誘われているので、人と一緒にいることも楽しめることが表現されているようである。 

ただし、「みんな」というのは、特定の誰かを指すのではなく、男女の区別もない。前回のような葛藤はここでは見られないが、それだけに他者との間に距離が感じられる。親密さに欠けている感じがある。 

 

 

11月23日 

(夢6)「倒産した社長と大学で会う夢」 

大学のような所を歩いている。資料を探しに図書室に入る。図書室だと思ったら、そこは普通の教室で、中では授業が行われていた。いきなり入ってきた私に、みんながびっくりする。先生らしき女性が「何の用?」と尋ねる。私は「人間が抱える悩みの変遷について調べようとしているのだけど、間違ってここに来たのだ」と説明した。その先生は「それなら資料室に当たってみた方がいいわよ」と教えてくれた。 

それから、校舎の間の中庭のような所を歩く。窓から教室の中の様子が見えて、そこに、昔参加していた勉強会の先生がいた。久しぶりに会いたく思って、科目を登録していないにも関わらず、そこに入って行く。中には先生が一人だけいた。学生がまだ一人も来ていないのだと、先生は言う。「久しぶりだから、寺戸君も参加しては」と先生が誘ったので、最初だけ参加した。 

資料室に向かうところが、ある建物に入ると、そこはオフィスだった。社長をはじめ、従業員たちが一生懸命に荷物をまとめている。私は社長に「どうしたのか」と尋ねる。社長が言うには、会社が倒産して、財産を処分しているところだと答えた。私は「それはたいへんだな」と言うと、彼は十数冊の貯金通帳を取り出して見せてくれた。そして、「これだけは何があっても守らなくてはいけないんだ」と語った。彼は、今は忙しいから、後で待ち合わせて会おうと言ってくれた。私はそれに従った。 

約束の場所には彼が先に来ていた。最初、彼が一人なのだと思ったけど、彼の後ろに従業員たちが一列に並んでいるのが分かった。私たちは一緒に歩く。彼は「従業員たちはこうして俺についてくるんだ」と説明した。彼を先頭に一列に並んで歩く集団は、どことなく不気味だった。そして、私が彼と並んで歩いているので、後ろの連中は私が一体何者なのかと噂しているようだった。 

私たちはリゾート地のホテルのような場所に着いた。大きなプールがあって、かなり際どい水着姿の女性たちがたくさん泳いでいる。彼はこういう場所に来慣れているらしかったが、私は興味がなかった。 

 

(連想と感想) 

(夢5)の「テスト」の関連か、舞台は学校、それも大学だった。 

「人間の抱える悩みの変遷について」というくだりは、現実に調べてみようとしたことがある。読売新聞に連載されている「人生案内」を、今年の分、十年前の分、二十年前の分、さらに三十年前の分と読み比べてみて、そこに人が抱える問題がどのように変わってきているかを見出してみようとしたことがある。図書館に通って、実際に取り組んだけれど、途中で頓挫している。 

夢の中では、図書室であるべき場所が、そうではなく、普通の教室だった。図書室に一人で籠ることではなく、教室でみんなと一緒に過ごすことが求められているのだろうか。 

昔の勉強会の先生と会ったのが印象的だった。実際にあったことだけど、私が勉強会に出席すると、どういうわけかその日に限って、参加者のほとんどが遅刻してしまったのだ。私は先生と二人で、参加者が集まるのを待ちながら、いろんな話をした。私にとってそれは貴重な時間だった。 

夢では場面が変わって、私がいるのはオフィスである。学生から大人になったような展開だ。夢は、私が学生のままでいることを許さなかったのかもしれない。ただ、そのオフィスは、閉業するところだったのだ。最後を見届けるような気持ちだったが、夢の中の社長は私にその姿を見せないようにしていた。 

隠し財産の貯金通帳だけを大事にし、取り巻き連中を従えて歩く彼を、私はどこか冷やかな目で見ていた感じがある。この社長は、私の生きられなかった一面を象徴しているように思う。子供の頃に、資産がたくさんあって、大勢の部下を従えるような人間を偉い人間だと思っていたことがある。今ではそんな風には考えないし、部下を従えることもお金持ちになることにもほとんど興味がない。その社長は、今現在の私とは正反対の存在である。 

 

11月24日 

(夢7)「テレビを見ながら歩く夢」 

家の近所の路上にいる。今日は休みだけど、高槻に行こうかどうしようかと考えている。家に居て小さな用事をいくつか片づけなければならないと思っていたが、結局、それらは後回しにして、取りあえず、駅に向かうことにした。 

 高槻に着く。見知らぬ風景だったが、そこが高槻で、私はよく知っている場所だった。人が大勢歩いていて、少々混雑した通りだった。友人が働いている店に飲みに行こうかと考えたが、彼の店は今日は定休日だったことを思い出して、何か食べに行くことに決めた。 

 人混みを避けるために、大通りから路地に入る。私の前を一人の男性が歩いている。邪魔なのだけど、道が狭いので彼を追い抜くことができない。私は高校時代の陸上部の同級生だったM君のことを、どういうわけか、考えていた。彼は無理して酒を飲んでいるなと考えていた。酒に強くもないのに、無理して周囲に調子を合せて飲んでしまっているなどと考えた。 

 私の前を歩いている男性に嫌気がさしたので、その男性を避けるために、私はさらに右手の路地に入る。その道は田舎のあぜ道のような感じだった。私はテレビを見ながら、歩いていた。テレビでは芸能ゴシップ番組が流れていて、ある女優と男性芸人が共演しないのは、二人がかつては夫婦だったからだと言い、観客は驚きの声を上げている。くだらない、どうでもいいことだと私は思った。 

 そのうち一軒の食堂が現れる。少し寂れた感じだった。私はそこを素通りする。 

 道は少し険しくなり、腰のあたりまである藪を漕いで歩かなければならなかった。それでもテレビは手に持って、見ていた。 

 テレビでは「無私欲」なる芸人が出ていた。顔を半分隠した男性で、またキワモノの芸人だろうくらいにしか私は思わなかった。彼がインタビューを受けていて、その後、彼の持ちネタを披露していた。その芸というのは、「無私欲的には~」という口上で始まり、芸能人の無私欲的と思われる行為を並べていくだけの、実にくだらないものだった。たまにうけないネタがあっても、「無私欲、そんなこと気にしない。うけようという私欲を持ってないからだ」などと言って、笑いを取っている。観客たちは笑っているけれど、私には何が面白いのか少しも分からなかった。 

 

(連想と感想) 

 一人で何かをするというのは、私の夢のパターンである。近所の路上から、見知らぬ大通りへ、それから路地に入り、さらにあぜ道のような路地に入る。徐々に寂しい感じになっていく。これは(夢1)における風景の変容と同じようなパターンを思わせる。既知から未知へ、集団から一人へ、都会から自然へといった移り変わりである。この移り変わりは、私には「死」のようなイメージがある。自分が誰でもなくなってしまうというような、アイデンティティを喪失してしまうような感覚を覚える。 

今回の夢では、私が一人になると、テレビが私のパートナーのようにして現れる。 

 テレビはほとんど見ない生活を送っている。映画はよく見るのだけど、テレビ番組はほとんど見ない。時間だけ消耗されるように感じられてしまうからだ。 

 ここでは「無私欲」という名の芸人の存在が面白い。現実にこのような芸人さんがいるわけではなく、私の心が作り出したキャラクターである。どこか私に似ているところがある。まず、顔を隠しているところである。私自身、写真を撮られることやカメラを向けられることが大の苦手で、さらに、一対一なら大丈夫なのだけど、大勢の人に顔を見られるような場面が苦手なのである。このホームページに私の顔写真が掲載されていないのはそのためである。 

 この芸人のネタというのは、すべて他人のことである。時々、こういう他の芸能人や有名人のことをネタにするだけの芸人さんを見かけるが、私はこういうネタに不快感を覚える。芸人と名乗っているくせに、自分自身を笑いの俎上に上げることができないような人だという印象を受ける。同じことは芸能ゴシップ番組でも感じることである。そこで話題になっていることはすべて他人事なのである。その他人事で儲けようとする連中に思われて仕方がないのである。 

 カウンセリングにおいても、しばしば、この場にいない第三者の話をすることがあり、そういう時は、何か噂話をしているようで、私自身、居心地の悪いような感じを覚える。どんな場合でも、他人の噂話というのは、するのも聞かされるのも、私は苦手なのである。話題に上がっている人は、その場にはいないのだけれど、その場にいるかのような感覚に陥ってしまうのである。自他が未分化だった幼児期の名残りのようだ。 

 高校時代のM君のことを考えたことには驚きだった。もちろん彼とはお酒を飲んだこともないので、無理して飲んでいるというのは、実際のM君とは無関係の話である。どうしてM君が出てこなければならなかったのかということであるが、夢では、私のすぐ前を一人の男性が歩いていて、私はその人をどうしても追い抜くことができないでいた。M君というのは、どこかそういう存在だった。私から見ると、常に私の一歩先を歩いていて、私は彼を追い抜けないでいた。夢の中の男性からM君を連想したのかもしれない。 

 それとは反対に、今の私は、私の一歩先を歩いてくれる誰かを必要としているのかもしれない。そういう存在がいないために道を見失うようなことになったり、藪の中を歩かなければならなかったりしているのかもしれない。 

 

 

11月25日 

(夢8)「甘いパンと銀歯の父の夢」 

二人の男性が食べ物のこと、食糧問題について激しく議論している。私は、その二人の間に入り、仲介役を務める。口論はそれ以上激しくならなかった。 

 家に帰ると、従妹がしばらく一緒に生活することになるかもしれないと、父親から話があった。父の前歯は銀色の銅板だった。しかし、その従妹は他の親戚の家に住むことに決めたようだ。私は少しがっかりする。 

 一階に降りると、食卓にパンが置いてあった。母親に食べてもいいかと尋ねると、母は「いいよ」と言ってくれた。それは見た目が地味なパンだったので、味を付けようと、マーガリンやケチャップを用意した。パンを割ってみると、中はホイップクリームがぎっしり詰まっていた。ちょっと苦手だなと思ったけれど、言葉には出さずに食べた。もう一つパンがあったのだけれど、お腹がいっぱいになって、それには手を出さなかった。 

 取引のある会社から仕事の報告書が届いた。報告書は細かな点まで記述され、さらに、どの個人情報を消去したかという詳細なデータまで添えられていた。きとんとした会社だなと思った。また、私の仕事の工程表について不明な点があるということだったので、私は連絡して、説明した。 

 

(連想と感想) 

 全体的に「口唇期」のテーマが感じられる。 

 二人の男性が口論していて、私が仲介に入るということは、どこか内的な葛藤が中和されていくイメージがある。 

 従妹というのは、現実にはこういう従妹はいない。私は二人兄弟の次男なので、新しい家族が増えるという経験をしたことがない。私の下に弟や妹がいたらどうなっていただろうと、昔はよく想像したものだった。最近、あるクライアントとこういう話題になったことがある。 

 父の前歯には驚いた。映画「007/私を愛したスパイ」に登場する「ジョーズ」のような歯をしていた。人を噛み殺すという、怖いイメージを帯びた父親として登場したようだ。確かに、子供の頃は父親が怖かった。もちろん、今はそんなことはないのだけど。どうも、その頃の怖いイメージの父親がそのままのイメージで現れたように思う。 

 小学校の頃、学校から帰ると、母が食卓にパンを置いてくれていたのを思い出す。夕食を準備している母に「食べてもいい?」と聞いていたのを思い出す。今回の夢は、そういう子供時代の記憶を呼び起こす要素がたくさんある。 

 夢に登場するパンは、地味な見た目とは裏腹に中身はぎっしりクリームが詰まっている。パンにしろ、書物にしろ、人間にしろ、見た目は華がなくても、中身がしっかりしているものに魅力を感じる。そういう在り方に惹かれる。 

 お腹がいっぱいになるということは、十分満たされたということ。甘えが満たされたような感じがした。おそらく、現実生活において、甘えが満たされるということがないために、または、十分満たされるということがないために、私は夢でそれらを体験しなければならなかったのだろうと思う。 

 そうして甘えが満たされると、私は仕事に戻っている。その会社の報告書というのは、とにかく精密で、私が感心したのを覚えている。どの情報を削除したかというデータまで付けていたのが特に印象的だった。私自身、今のカウンセリングの仕事に関して、もっと正確に伝えることができたらいいのにと思う事が多く、その気持ちが反映されているかもしれない。 

 家族の中で、兄だけが登場しなかった。兄を消してしまいたい、無きものにしたいという願望を読み取ることもできるだろうが、今の私の生活において、兄はほとんど関与するところがないために、夢では登場しなかったのだろうと、私自身は考えている。両親と私の三人の関係、それに一緒に暮らすことになるかもしれなかった従妹との関係において、家族を体験し直しているかのように思う。 

 

 

11月26日 

(夢9)「肩の重圧感と兄の嫉妬の夢」 

何かの作業をしている。中学生の頃の同級生と同じ班だった。彼女とコンビを組んで作業していて、割と順調に作業を終える。 

 家に帰る。どういうわけか彼女も一緒だ。ご飯を食べようとする。そこにはおかずがなく、ご飯だけがある。おかずが何もないのだから、仕方がないからと塩をふりかけて食べようとする。塩の蓋の穴が大きくて、ご飯の上に大量に塩がかかってしまった。どうもこれではいけないと思い、食べるのをやめた。母も「そんなの食べるのはやめとき」と言ってくれた。 

 兄がいて、私のことを妬んでいる。私の方がたくさん与えられていると言って、妬む。私の方はと言うと、確かに私も与えられているけれども、兄弟でそんなに差はないと考えていたので、兄の愚痴を聞き流した。 

 家のゲーム機が壊れたということで、少し問題になったけど、私は「もうそんなものはいらないやん」と言って、取り合わなかった。その場には彼女もいて、私の意見に賛成してくれた。 

 それよりも私はもう一度英語を勉強しようと思っていた。大学院を目指すなら、やっぱり英語はできた方がいいなということが話題になったためだ。 

 それから、私は仕事に行こうとするが、私の両肩が腫れて、動かなくなった。肩がとても重くて、何かがのしかかってくるような重みだった。私の肩を見て、母は心配したけれど、私は大丈夫だと言って、そのまま仕事に向かった。 

 

(連想と感想) 

 前夜、近所にある小さな居酒屋さんで飲んだ。店長の娘さん、中学生の娘さんが手伝いに来ていた。私と店長が楽しそうにお喋りしているのを見て、娘さんも会話に入ってきた。その娘さんは、私の話が面白いからと言って、もっと聞かせてと懐いてきた。そんなことがあって、私は、やっぱり中学生くらいの子は大人が好きなんだなと思った。まだ、それだけ大人の存在を必要としているのだな、などと考えていると、私は自分の中学時代のこととかを振り返ってみたりした。そういうことが影響したのか、中学時代の同級生の女の子が登場している。 

 この同級生は、夢の中では大人なのだが、見た目は中学時代のままである。私はけっこうこの子が好きだったのだが、当時はそれほど仲良くもなれなかった。夢で関わることができて、嬉しいような感じが残っている。 

 (夢2)や(夢4)でもそうだったが、何かの作業や仕事という形で女性と関わることが多いようだ。 

 この同級生なのだが、当然、20年以上会っていない人である。従って、現実の彼女というよりは、私の心の中にあるものが、彼女の姿を借りて登場したと考える方が妥当である。これはユングの考え方であって、私も賛成である。では、私の何が彼女の姿となって表現されたのだろうかと問われると、今のところ、私にも分からないと答えるしかない。ユング派の人なら、私のアニマ像と捉えるかもしれないが、私はこういう考え方についていけない時がある。 

 その後、前回の(夢8)と類似のテーマが出てくる。食卓にご飯しかないというのは、私は食生活が最近乱れていることを心配しており、それがどこか反映されているかもしれない。ただ、前回と異なる点は、今回は食べることができなかったということである。消化すること、同化することの失敗である。 

 今回は兄が登場する。兄は私を妬んでいる。こういう光景は子供の頃に見たことがある。時々、私は未だにこの段階から抜け出していないのではと思う時がある。子供の頃、比較していたように、兄と自分を比べてしまうのである。 

 その後、ゲーム機が壊れて、私が、「もうそんなもの要らない」と言っている。私も時々パソコンゲームとかやってみるのだけど、時間ばかり取られて、上達もしないし達成感も得られないし、どこか「子供の玩具」という冷めた目で見ることもある。私が子供の頃は、ゲーム機を持っている友達が羨ましくてならなくて、どうしてもゲーム機が欲しいと思ったこともある。そういう子供時代に必要だったものを、「要らない」と言っている。子供時代から抜け出そうとしているのかもしれない。 

 続いて、英語を勉強しなおそうかなと語っている。私の最初の大学では英語を専攻していた。兄の嫉妬やゲーム機など、子供時代を思わせる事柄を経て、大学時代に飛んだようである。ちなみに、私はその大学を中退している。その大学に未練があるわけではないが、何かやり残したという感じを覚えることがたまにある。大学院ということに関しては、数年前に目指してみようと志したことがあるが、経済的な面と年齢的な面のために断念したのである。これに関しても、どこかに心残りのようなものがあるのかもしれない。 

 最後は肩が重くなるエピソードである。整体をやっている人が私の肩に触れて、ガチガチに肩が凝っていると言ったことがある。私は肩こりはほぐさない方が良いという根拠のない信念を抱いているので、おそらく年がら年中肩が凝っているだろうと思う。四六時中肩が凝っていると、それが当り前のような状態になって、よっぽどの凝りでないと感じないようになっている。少しは体のことに目を向けなさいということか。 

 それはともかく、肩というのは責任や重荷がのしかかる部位である。気づかない間に、いろんなものを、私の両肩に乗せてしまっているのかもしれない。 

 

 

11月27日 

 朝まで原稿や記録、書類などを書いており、一睡もせず。従って、夢もなし。 

 

 

11月28日 

 徹夜明けの一日を過ごして、この日はぐっすり眠る。何か夢を見たという感じは残っているが、覚えていない。 

 

 

<2週目を終えて> 

 自分の夢を書いていて、ふと、この夢をフロイトだったらどのように解釈するだろうかとか、ユングだったらこの夢に対して何と言うだろうかとか、ビンスヴァンガーやボスといった現象学の人たちはどのように読むだろうかなどと考えることがあります。私の夢を読んでくれたあなたからも、本当は感想を聞きたいくらいであります。他人にはよく見えていても、自分では見えていないところもたくさんあるでしょうから。 

 ここまで、興味を持って読んでくれた人の中には、失望された人もあるかもしれません。私が自分の夢にすら確固としたことを言ってないと分かって、がっかりされるかもしれません。夢をどれだけ追求していっても、確かな答えに行き当たるとは限らないし、夢というはっきりしないものは、はっきりしないまま読んでおくという姿勢も大事であると私は考えております。ですから、一つの結論に導かなければならないというわけでもないものと捉えております。ある程度の傾向さえ掴めれば、それでいいものです。 

 夢というものは、基本的に、自分の過去を見るものだと思います。今週の夢は、私の過去に関わる夢が多かった、それも子供時代から学生時代のテーマが多かったように思います。それは、先週ではあまり見られなかった部分であります。私の心の何かが、先週とは違っているので、見る夢に違いが生じたのでしょう。 

 夢の旅は、次回より三週目に入ります。読んでくれる人が続くことを祈っています。 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

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