<T008-03>ボツ原稿集怒り・敵意憎悪(3) 

 

 本ページのコンテンツ 

<5>フロイトの精神分析 

<6>攻撃の種類 

<7>愛と憎悪は水と火の関係 

<8>人間の攻撃行動 

 

 

<5>フロイトの精神分析 

 フロイトは精神分析の創始者であり、治療者でした。その理論や方法論に批判や反論している立場も数多くありますが、フロイトが生涯かけて取り組んだのは、人間の破壊衝動をいかにして望ましいものに昇華(1)し、愛情能力を回復していくかというテーマだったように思います。 

 実際、「健康な人格の条件は何か」と弟子に質問された時、フロイトは「愛することと働くこと(Lieben und Arbeiten)」と答えたそうです。深淵な答えを期待していた弟子の中には、この簡潔な答えに失望した人もあったようです。 

 でも、私はこの言葉ほど的を射た表現はないと思います。毎日神経症の患者さんと会っているからこそ出てきた言葉のように私には思われるのです。 

「愛することと働くこと」とは、愛情能力の回復と攻撃衝動の昇華を述べているものです。私の考えるところでは、この両者は切り離すことができないのです。片方に問題を抱える人は、他方をも達成できないと私には思われるのです。 

 結婚して職に就いていればそれで両者を達成したとは言えないのです。そういう外側の基準では測れないものなのです。どんなふうに相手を愛し、働いているかということが肝心なのです。 

 カウンセリングに訪れるクライアントはこの両者のどちらかにおいて問題を抱えておられるのです(2)。クライアントと会っていると、フロイトの言葉の的確さを私は実感するのです。そして、それを達成することの困難さをも実感するのです。 

 フロイトの取り組んだテーマは21世紀に生きる私たちにこそ課せられているのではないでしょうか。 

私たちは本当に人を愛することができているでしょうか。離婚率の上昇、未婚率の増加、さらにはDVや虐待、体罰、いじめの問題、どれも社会問題になっている事柄ばかりです。これは私たちが愛情能力を獲得していると言えるでしょうか。うつ病や自殺、自傷行為でさえ自分を愛することの困難を示していないでしょうか。 

また、働こうにも失業率の増加、就職困難者の学生たち、ワーキングプアの問題、どれも労働に関しての問題です。そのような問題を抱えている日本社会において、私たちはどのようにして真の労働を達成できるでしょうか。就労していても、それが、破壊衝動を昇華するよりも、新たな憎悪を生み出したりしていないでしょうか。 

 

 

(1)昇華とは、望ましくないものを望ましいものに置き換えていくことです。人を刺し殺したいという願望を抱える人が、推理小説家になったり、外科医になったりすれば、それは殺人衝動を昇華したと言われます。注意すべき点は、望ましくない願望や衝動を失くすということではなく、それを社会的に受け入れられる形に置き換えていくという点にあります。 

(2)この両者の問題というのは、「心の病」の原因ではないのです。「心の病」の結果として、両者の領域に困難が生じているのです。例えば、離婚を取り上げてみましょう。愛情関係が破たんして「心の問題」を抱えるのではなく、「心の問題」を抱えているから愛情関係が破たんしていることの方が多いのです。 

 

<6>攻撃の種類 

 怒りが生じると、それに引き続き何らかの攻撃行動が誘発されます。この攻撃にはどのような種類のものがあるでしょうか。 

 ローゼンツヴァイクのP-Fスタディでは、攻撃を三種に分けています。 

 一つ目は外罰型、もしくは他罰型で、欲求不満をもたらした対象に直接的な攻撃をするというものです。対象に原因がなくても、対象を攻撃するという場合、転嫁するものもこの型に属します。 

 二つ目は内罰型、もしくは自罰型で、欲求不満をもたらした状況の全責任を自分に負うというものです。攻撃を自分に向けるタイプであります。うつ病と診断される人にはこのタイプが圧倒的に多いのです。 

 三つ目は無罰型というもので、非攻撃的反応で、これは攻撃の対象を特に明確に設定しないものもあれば、問題を回避しようとする人などに見られるタイプであります。 

 この分類はとても分かりやすいのですが、いささか大雑把な分類であると私は個人的には考えております。 

(未完) 

 

<7>愛と憎悪は水と火の関係 

 愛と憎しみは表裏一体だという見解には注意が必要です。もし、それら一体のものであるとすれば、子供をもっとも虐待する親が子供を深く愛している親だということになってしまいます。ヒトラーがユダヤ人を虐殺したのは、ヒトラーがユダヤ人をこよなく愛したからだという理屈が通ってしまいます。これは頷くことはできない理屈なのです。 

 愛と憎悪はまったく別の感情であり、一体になることは決してないのです。 

 それが表裏一体のように見えるのは、ある一部分において、両者が関係してしまうからです。私はそれを火と水の関係のように捉えています。 

 水と火はそれぞれ別個の物質であり、現象であります。でも、水は火を消すことができ、火は水を蒸発させることができるという点で、両者は関係を有します。水と火は同居しえないのです。同居すればどちらかが消失することになるのです。愛と憎悪もこれと同じような関係ではないかと私は捉えています。 

 愛は憎悪を癒やし、憎悪は人から愛情を奪うものです。憎悪を抱える人は人を愛することができないのです。何人も私はこういう人を見てきました。その人にとって、他者は常に内面に抱える憎悪を刺激する人物になってしまうのです。とても愛することなんてできないのです。 

 愛する前に憎しみが前景に出てしまったり、憎しみを晴らしてからでないと愛せないと感じている人もおられます。これは愛情能力がひどく制限されていることを示すものだと思います。 

 一方、本当に人を愛することができる人は憎悪から解放されているのです。でも、これはとても難しいことです。「汝の敵を愛せ」というキリスト教の教えは、愛情能力の回復を訴えているものだと私は理解しています。多くの人がそれに困難を覚えるからこそ、こういう教えがなされてきたのだと思います。 

 憎悪を抱えている人でも、例えば結婚している人もあり、上手くいっている場合もあります。でも、よくよく見ると、それは憎悪でつながっている関係であったりします。ある夫婦は共通の敵で結びついており、お互いに自分の憎悪を助長し合っていました。この夫婦には愛情なんてありませんでした。この夫婦においては、相手はいわば戦友のような感じではなかったかと思います。 

 しかし、中には、相手を愛すると同時に憎悪もしていると体験している人もあるかもしれません。もし、そういうことが本当に起きているとすれば、それはその人が内部分裂を起こしていると私には思われるのです。一方の彼が相手を愛し、他方の彼が相手を憎み、それを同時にやっているということになるからです。 

 ここまで極端でない場合、そしてこういう場合の方が圧倒的に多いのですが、一人の相手に対して憎しみと愛とを交互にしているものです。ある時には愛し、次の時には憎み、さらに次の時には愛していたりするのです。相手が両価的なのです。でも、この愛は本当の意味での愛ではない場合が多いというのが、私の感想であります。 

 

<8>人間の攻撃行動 

 怒りの感情を体験すると、そこから攻撃行動が誘導されます。怒りが必ずしも攻撃行動をもたらすとは限らないのですが、多くの場合において、なんらかの攻撃行動が怒りに引き続いて生じることが観察されます。 

 攻撃ということですが、これは動物にもあります。コンラート・ローレンツやティンパーゲンなどの動物行動学者は動物の攻撃本能を認めています。ただし、一方で動物には攻撃抑制本能も備わっていると述べています。 

 これはどういうことかと言いますと、動物が同じ種どうしで争った場合、相手を殺してしまうことは種の絶滅につながるわけです。種の存続のため、いくら争っても相手を死に至らしめる前に攻撃が抑制されるということなのです。それを動物は本能的に有していると言うのです。 

 人間には、幸か不幸か、そういう攻撃抑制本能が備わっていないのです。私たちは同じ人間同士で争った場合、相手を死に至らしめることができてしまうのです。私たちの中にそれを抑制する本能も機構も備わっていないのです。だから人間は社会的な攻撃抑制を必要としてきたのです。法はそのようにして出来上がってきたのだと思います。 

 そして、外側の抑制以上に必要なことは、私たちの一人一人が内的にそれを達成していくことではないかと、私は考えています。 

 私たちの中に攻撃抑制本能が備わっていないとすれば、それはとても恐ろしいことなのです。もし、私とあなたが争ったとします。あなたは私を殺すことができるし、私もあなたを殺すことができるということなのです。私たちの中には、自然にそれにストップをかけてくれるシステムを有していないということなのですから、私たちは意図的にどこかでこの争いを終えなければならないということなのです。死に至るまでやり合うか、そこに至るまでに和解するか、私たちは意図して選択しなければならないのです。 

 攻撃抑制機構を有せず、攻撃衝動だけはあるというのは、本当に爆弾を抱えているようなものだと私には思われるのです。だから、私たちは一人一人が、破壊的に生きるより、建設的に生きることの方がどれだけ大切なことであるかが理解できるのです。 

 ローレンツらの見解によれば、私たちの中には抑制してくれるものがないわけなので、私たちは攻撃の抑制ということを学んでいかなければならないのです。私はそう考えるのです。 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

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