<T008-04>ボツ原稿集『怒り・敵意・憎悪』
本ページのコンテンツ
<9>憎悪の粘着性
<10>憎悪を晴らす
<11>憎悪は不幸をもたらす
<12>本当の自己と偽りの自己
<9>憎悪の粘着性
一旦憎悪感情を抱え込むと、人はそれを抱え続けてしまうのです。なぜ、憎悪感情はそういう粘着的な性質を有するのかを考察します。
憎悪を抱える人は自分の方に正当性があると捉えるのが常なのです。相手がそういうことをするから、自分は憎悪して当然だという形の理論を形成しておられるのです。
この理論、憎悪しても自分の方が正当だという理論は、その人が自分の理性を保つための一つの試みであり、自分の人格を組織化し、維持する試みであると理解することができます。
だから、憎悪している人を罰したり禁止したりしても、その人は改善しないのです。そればかりか、その憎悪が自己の人格の形成と維持に役立っている限り、それを取り上げられることは自己が解体するような危険を体験するのです。この体験は強い不安としてその人には体験されるのです。
憎悪を抱える人は、その憎悪によって自分を維持しているという前提に立てば、その人は自己を維持していくのと引き換えに、その憎悪を長引かせてしまうことになるのです。それを抱え続けなければいられないという事態に陥るのです。そして、それを抱え続ければ続けるほど、それは簡単には手放せない価値を持つようになるのです。こうして一つの悪循環が生まれると私は捉えています。
もう一つ、憎悪が維持されてしまう要因は、憎悪を抱える人が、いつかその恨みを晴らすことができると期待しているという点にあります。私の経験したところでは、この期待は意識化されていないことが多いのです。無意識的にそういう期待を抱いていることが多いのです。
(未完)
<10>憎悪を晴らす
人間は心の中にあるものを実現しようとする傾向があり、憎悪を抱える人も同じようにそれを実現しようとしてしまうのです。
体罰や虐待をしてしまうクライアントが何人かおられました。実は、その人たちも教え子や我が子に暴力をふるいたいとは思わないのです。なぜかそうしてしまうと語られるのです。
なぜかそうしてしまうというのは、本当の動機にその人が気づいていないということを意味します。自分でもはっきりしない動機からそうしてしまうのです。それは当人にとっても不快な体験なのです。
この不快感を解消するためにとられるのが、自分を正当化する手段なのです。例えば「教え子がどうしても分からないから」とか「自分もそうやって育てられたから」という理論を持ち出すのです。でも、これは合理化なのです。
夫からのDVに悩む女性クライアントが、その暴力的な夫について話してくれました。夫は早くに母親を亡くしたらしく、また、この女性を「お前はうちのおふくろとそっくりだ」と頻繁に語っていたのです。この男性は母親に対しての憎悪をこの女性で晴らそうとしているのです。もちろん、彼がそれを意識しているわけではないのです。
あまり詳細に述べることは差し控えますが、彼が彼女に対して発する暴言があります。「お前は○○だ」とか「お前の○○の所には本当に腹が立つ」などと言った表現をするそうなのですが、こうした暴言の「お前は」の部分を「お母さんは」に換えてみると、彼の述べていることがよく理解できるように思いました。彼は子供時代から抱き続けてきた母親への憎悪を、大人になった現在において、自分の妻で晴らしているのです。
また、「自分もそうやって育てられたのだから、自分の子供にもそうしているだけだ」と訴えた母親のクライアントは、子供を自分と同じ目に遭わせることによって、復讐を果たしているのです。(1)
よく見られるのは、相手がこれこれこうだから、相手を憎むのだという形の表現であります。公平に考えれば、ここには二つの可能性があります。一つは相手がそれだけのことをこの人にしたという可能性で、そのために相手を憎むのだということです。これはその表現と一致しているのです。でも、その人に憎悪感情があるから、相手をそんな風に見てしまうという可能性もあるのです。こちらの可能性の方は見事に排斥されていることが多いのです。
先ほどのDV男性もこの母親も、自分の抱えている憎悪には気づいていないのです。薄々とでも感じているかもしれませんが、それを認めることができないのです。
(1)これは「攻撃者との同一視」と呼ばれる現象であります。攻撃者との関係で無力な自分を体験した人が、攻撃者になることによって、自分の無力感から解放される試みなのです。力を取り戻す試みと見ることもできます。
<11>憎悪は不幸をもたらす
人が憎悪を抱えようと、誰を憎んでいようと、自由ではないか。そんな風に思われる読者もおられるかもしれません。確かに、他人の憎悪は、それが私に向けられるのでない限り、私には関係のない事態であります。
でも、憎悪はその人を決して幸福にはしないし、他の周囲の人をも不幸にしてしまうこともあるのです。それが私に向けられることも起こり得るでしょう。だから、人間の憎悪の問題は他人事にはできないのです。
憎悪はその人を人生のある一時点に拘泥してしまうのです。それはその憎悪を抱えることになった時点です。その人の心はその時点より前へ進むことが阻まれてしまうのです。極端に言えば、憎悪を抱えた時点で、その人には成長への道が閉ざされてしまうのです。
ある憎悪感情の強いクライアントは、「タイムマシンであの日に戻ってやり直したい」と述べました。それが彼の希望だったのです。彼はその日より前に進むことができず、何かにつけて、その日に舞い戻り続けるのでした。
憎悪感情を抱えている人は、憎悪する対象が目の前にいなくても、やはり何らかの不快感を体験しているものです。仮に、その人が満たされているといような時でも、何らかの漠然とした不快感を体験していたりするのです。
だから、憎悪を抱き続けている人は、決して満足を経験しないのです。常に何か不満なのです。
あるクライアントは、自分がとても幸福や愉悦を体験している時でも、一方では、「こうしている間にもあいつらはいい思いをしているに違いない」という観念を持ち続けているのでした。そうして彼はせっかくの自分の幸福を否定するのです。
<12>本当の自己と偽りの自己
・偽りの自己には、幅がある。リアルに限りなく近い偽りの自己から、リアルからかけ離れた偽りの自己とまでの幅がある。
・偽りの自己には、それが健康的なものから病的なものまでの幅がある。
・健康的なファルスは、リアルを保護し、リアルを支え、そしてリアルの適応を促す。
・病的なファルスは、リアルを隠蔽し、リアルの成熟を損ねる。
・ファルスは常に適応のために発達させてきたものである。
・ファルスを生み出すのはリアルである。リアルが自らを守るために、ファルスを生み出す。このことはつまり、ファルスが活動する場面では、リアルの活動も促されている。
・リアルは常に健全であり、創造的であり、躍動的である。それは成長を目指す。充実感を体験する。「心の病」は常にファルスにおいて生じるものである。健康的なファルスをいかに育てるかということも重要なのだ。
・病的なファルスは服従的であり、非躍動的であり、模倣的であり、リアルからエネルギーを奪う。空虚感に支配されている。
・ファルスに支配されているということは、リアルが脅威として感じられているからである。リアルは恐ろしいものとなっている。自己が恐ろしいのだ。それを隠蔽するためにはファルスでのみ生きなければならなくなる。
・ファルスでのみ生きて、リアルな方を押し隠す。リアルは決して消滅しない。むしろ、リアルはより強力に表に出ようとする。衝突が生まれる。この衝突の結果、周囲の人はその人に失望する。
(注:これは別の原稿のメモであったかもしれない)
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)