2月5日(金):コロナ禍を生きる~主従関係
人間関係というものは常に対等というわけにはいかず、どうしても上下の関係が生まれてしまう。この場合、下は上に従うという位置づけがなされる。一つの主従関係が成立するわけであるが、今はこれを「支配-服従」関係と捉えておこう。
支配-服従関係の在り方は一つとは限らず、様々な要因が絡んでくるので様々な形態があり得ることになる。今、支配側と服従側にそれぞれ一つの因子を設定して、各々を二分することにしてみよう。
支配側の因子として支配の手段を挙げておこう。服従側の因子としては当事者の意思という要因を挙げよう。その他、動機、目的、価値などの因子を双方に加えることも可能であるが、あまりたくさんの因子を設けると煩雑になるので、今は二つの因子に制限しておこう。
この二つの因子にはそれぞれプラス(+)とマイナス(-)があるとしよう。
まず、服従する側の因子として、
①自分の意志に基づく(+)
②自分の意志に反する(-)
という次元の軸を設定しよう。
次に、支配する側の因子として、その手段に関して以下のように設定しよう。
A尊敬されることによって(+)
B権力によって(-)
①②とABの組み合わせによって以下の4つの関係性が成り立つことになる。
(A①)
これは尊敬する上に対して、下は自らの意思で従うというものである。(+・+)の関係である。これはもっとも理想的な主従関係であると僕は思う。『葉隠」などで説かれている主従関係はこれに属するのではないかと思う。。
(A②)
これは上は尊敬しているけれど、それに従うのは自分の意志に反するというものである。(+・-)の関係である。
例えば、X社の社員がその社長のXは尊敬するけれど、本当はY社に転職したいと考えているのにそれが実現せずXに従っているといった状況が考えられようか。どのような状況であれ、この主従関係には葛藤が存在することになると思う。
(B①)
これは。支配側は権力で服従させようとしているが、服従している側は自分の意志で服従しているというものである。(-・+)の関係である。
これは、つまり権力が私を動かしているのではなく、自分の意志で動いているのだということである。静かな反抗と呼んでもいいだろうか。あるいは、実存主義的抵抗と呼んでもいいだろうか。
(B②)
これは従いたくないのであるが、権力による恐怖心から、自分の意志に反して服従しなければならないという関係性である。これは(-・-)の関係である。
ミルグラムなど、社会心理学の分野では服従の心理が研究されているが、その大部分はこのタイプの関係性に関する研究であると僕は思う。また、「支配-服従」という関係で一般の人が思い浮かべるのはまずこのパターンではないかと思う。
以上はあくまでも僕の個人的見解に過ぎないものであり、心理学的な裏付けがあるものではないことをお断りしておこう。それを踏まえて本題に入ろう。
コロナ禍において、政府はさまざまな要求を国民に発してくる。三密を避けましょうとか、会食は控えましょうとか、僕たちはそれに、ある意味では、服従していることになる。
僕もできる限り守ろうとはしている、もちろん完全には守り切れていないだろうし、時には違反することもある。それでもできる範囲では守ろうとしているので、政府に従っていることになる。
去年までの僕は、上記の区分に従えば、(B①)に近かった。さまざまな発令は政府からの圧力のようにも感じられていたし、それになによりも僕は政府を尊敬できないのであるが、それでも自分の意志で注意事項を守っているという感覚もあった。
今、僕は(B②)のような感じに陥っている。ハッキリ言って政府が恐ろしい。どんなことでも国民に対してできてしまう政府だという気がしている。時短営業を守らなかったら罰金、入院を拒否したら罰金、検査を拒否したら罰金、患者を受け入れなかった病院は実名公表する、やりたい放題といった観を呈している。そのうち、時短営業に応じない店に行った客も処罰対象になるかもしれないし、正しいマスク着用をしていなかったり、密を作ったというだけで処罰されてしまうかもしれない。
僕は僕で感染症対策を守ってはいるつもりであるが、もはや自分の意志でそうしているという感じがしなくなっている。処罰の対象になってしまわないように、それだけを考えてやっているような感覚に陥っている。
理想を言えば、(A①)のような関係を達成することがいいのだろう。その達成を目指していくのがいいのだろう。ただ、今の状況ではそれも絶望的だという気がしている。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)