<T025-16>文献の中のクライアントたち(16)
クレペリン『精神分裂病』より。同書はケースの宝庫であるが、断片的な記述も多く、ある程度まとまりのあるものだけを抜粋する。こうした分裂病者の言葉が理解できるようになれば、人間をもっと理解できるようになると僕は思うので、僕自身の向上のためにも考えてみたい。
今回収録のクライアントたち
(cl73)ある分裂病者の言葉
(cl74)ある患者の手記より
(cl75)性感覚を訴える女性
(cl76)知的拒絶を示した患者
(cl73)ある分裂病者の言葉
これは他の点では意識のはっきりした物分かりのいい患者が述べた言葉である。(原文は一続きの文章だけど、ここでは便宜上、文章ごとに区切ることにする)
「何となれば我々自身は他の思想に支払わしめるべきであるということを常に希望し得るのである。(1)
何となれば我々自身は我々とともに豚の如き脳みそしかない人間をバカにして死に至らしめるまで苛ましめるべき人は誰であるのかを知らんと欲することを欲するのである。(2)
否、我々自身は然るほどバカにあらずして、もし我々が自身に豚の如くに呑むことを免ぜしめるべきならば、必ずしも、そのことを気にかけぬのである。(3)
何となれば、我々はまさにバカになり、好んで大バカにされるべきであるからである(4)」
(以上がこの患者の言葉である。「何となれば」を始め、言葉の常同性・反復が見られ、言い回しは冗長になり、一回読んだだけでは何を言っているのかよく分からない。僕のやり方は、まず、余計な言葉、常同語・反復語を省き、言い回しをスッキリさせる。その上で、複数の視点や立場を整理してみる。
まず、(1)の文章は、自分以外の思想に何らかの賠償を求めているということであるようだ。ここには抗議者としての立場が見られる。しかし、賠償を「希望し得る」と言うことで、一つの立場、断言を曖昧にして、回避しているようにも聞こえる。一つの文章を言い終えるまでに一貫した自分を保つことが難しくなったのではないかと思う。こうした抗議はこの人になんらかの脅威をもたらしてしまうのかもしれない。
続いて(2)は、幾分複雑になり、迫害者と被迫害者の立場が混合しているように僕には聞こえる。(1)ではまだ立場がはっきりしていたのに、一気にそれがぐらついて、混乱したような印象を受ける。文章構造がまとまっていなくて、曖昧な文章であるが、おそらく、豚の如き脳みそしかない人間をバカにする人間が誰であるか、それを知ることを要求するということなのだろう。
(3)では譲歩するような立場が入り込んでくる。彼は、自分は豚の如き脳みそしかない人間ほどのバカではないと言う。ただし、これには条件があって、豚の如くに呑むことを許すならということである。これはつまり、迫害さえしなければ抗議はしないという譲歩を示しているように僕には聞こえる。従って、この人はこの時点で迫害を恐れ始めているように僕には思える。
(4)では、ある意味では積極的に被迫害者の立場に留まろうとしているようである。ここでは、自分はバカである、だから好んでバカにされるべきだと言っているわけなので、もはや抗議者としての彼は存在せず、被迫害者の立場に落ち着いているということである。この立場こそ、この患者が最終的に到着するところなのだと思う。
この種の話が意味不明に聞こえるのは、話し手が一つの立場を維持することができなくなっているからだ。複数の立場が入り混じるのでややこしくなる。少し別の言い方をすれば、複数の人格が同時に物を言うようなものである)
(cl74)ある患者の手記より
「私は自分が催眠術にかけられ、電気をかけられ、とにかく何かの霊媒か何かの意図に支配されているように触られていると感じました。感覚器官はどれも影響を受けて霊媒の意図がずっと遠くからいつも聞こえ、その霊媒にどうしても従わなければなりませんでした。私はその意図を体のどこででも、私の全身で感じたり聞いたりします。聞こえたことは霊媒と称するものの意図のいかんによるもので、この霊媒は私のあらゆる知人の声の真似をし、毎日次から次へと別の知人が私の心に浮かんでくるのです。このようにして霊媒は何でも分かってしまうので、私の個人に関する秘密はもう何もなくなります。私の脳を横切ってまだ動いているものは皆霊媒によって再生され、勝手にいくらでも反復するのですが、その時、私の脳はいつもこの反復したやり方をその通りにやらなければなりません。こういう出来事は考えることだけでなく、話すことにまで及びます。その特徴的なことは、この幻聴は、私の聴覚がじかの騒音で麻痺されていても聞こえることで、それ故こういう出来事は脳自体の中で起こることは確かだと思います。幻視もまぼろしもずっとありますが、これも皆霊媒の意図と私の想像力のために起こります。まぼろしは目を閉じた時にだけ現れます」
ここには病識と被影響感の奇妙な混合、ことに心の自由性喪失の感じがある。
(かつて、僕のクライアントにも同じような訴えをするクライアントがいた。その人の場合、「霊媒」に該当する人物が現実に存在した。彼女が過去に関係したある人物であった。上記のケースでは、「霊媒」は擬人化された存在であり、実在しているわけではない。
こうした存在は、自分に起きている理解不可能な経験を説明するために生まれるものだと思う。何も説明がつけれらない状態でいるよりも、何者かによってそうさせられていると信じる方が、苦悩や不幸の経験を耐えやすくするのだと思う。
患者には、幻聴、幻視、さらに身体の触感がある。これらを非現実的なものであり、自分の想像力がそれに加担していると認識できる程度の現実検討力がこの患者にはある。現実検討力は保たれているけど、これらの経験の説明や原因帰属が非現実的になっているわけだ。
こうした「霊媒」には人智を超えた能力が与えられるものである。そういうことは普通の人間にはできないことだと説明されると、恐らく「それは理解できます」などと答えるだろう。その上で、「でも、あの霊媒にはそういう特殊な力があるのです」と反論されるものだと思う。この霊媒の存在を失うことは、理解不明の状態に舞い戻ることを意味する、つまり、自分に訳の分からないことが起きているのにそれの原因も説明もつけられないという状態に戻ってしまうことを意味するので、こういう存在は患者の中に留まり続けることになるように思う。
苦しみの原因とされる対象が、架空の存在者であれ、擬人化できるということは、この人の中に関係性がまだ生きていることの証拠だと僕は考える。そう思いたい。これが擬人化できない場合、悪魔とか魔物とか、あるいは電波やテレパシーのなどの遠隔操作によるものといった、非現実の対象や物質的な影響のためにされるようになると僕は思う)
(cl75)性感覚を訴える女性
この女性患者は夜毎の経験を次のように語った。
「夜になると私は神と宗教的に交合されて、かえって純潔を得たような気がしました。痛みはかなり大きかったのですが、声を出しませんでした。それでも私は何分間かはひどく喘がなければなりませんでした。それからまだ何回も交合させられたような気がし、そこでよい衣服をつけてベッドの上へ上がって横にならなければなりませんでした。けれども、私のそばには人はまったくいなかったのです」
(神的な存在と性交するといった話は病者がしばしば言うものである。性的な事柄を拒絶したがる人や、性的な経験や観念が脅威をもたらすように経験している人などによく見られるものではないかと、個人的には思っている。
実際にそれは特殊な経験で、説明しようのない経験であるかもしれない。自分でも理解できないので、性的な経験や感覚をそのように説明してしまうのだろうと僕は思っている。受け入れがたく、異質な体験として受け止めているので、人間世界を超えたものが登場するのではないかと思う。
この女性は、性感情や性的衝動の高まりを経験しているのかもしれないし、自慰の経験を述べようとしているのかもしれない。「純潔を得る」というのは、エクスタシーの経験を言っているのかもしれない。
何度も交合した気がした上で、彼女はよい衣服をつけて(正装するということだろうか)横になったと言う。その行為によって、自分が純潔であること、汚らわしいことをしていないということを自身に証明しなければならなかったのかもしれない。それはきちんとした行為であり、正しい行為であることを示す必要があったのかもしれない)
(cl76)知的拒絶を示した患者
thの問いかけに知的拒絶を示した患者。( )内は正答ならびに解説。
th「この人はなんという人ですか」(正解:A医師)
cl「小さい人です」
th「この人の名前はなんと言いますか」
cl「Hさんです」(Hは同室の患者の名前)
th「指が何本ありますか」(正解:3本)
cl「4本」
th「今度はいくつ」(正解:4本)
cl「5本」
th「今度は」(正解:2本)
cl「1本」
th「コインが何枚ありますか」(正解:3枚)
cl「6枚」
th「違います。よく分かっているはずですよ」
cl「2枚」
th「違います。何枚ですか」
cl「4枚」
th「今抜かした数を言えばいいのですよ」
cl「25000」
th「25000とはどういうことですか」
cl「都合がいいのです」
この患者は、しようと思えばできる正しい答えを回避していることは疑いがない。故意の偽りの印象を与えるものである。
(こういう拒絶は、質問者を困らせる意図でなされることもあるだろうし、少しでも長く自分にひきつけておくためになされることもあると思う。分裂病の場合、これは影響を避けるためであったり、自己の喪失を防ぐためになされるのではないかと思う。つまり、質問者の質問に正答を与えることは、質問者の言いなりになる(影響下、支配下に置かれる)ことになり、それは自分自身を喪失してしまう体験になってしまうということだ。
コインを3枚見せて、何枚ですかと問う。6枚と答えたら、「正解です」と言う。すると患者は拒絶せざるを得なくなっているので、「いえ、本当は3枚です」と正解を言うしかなくなる。患者が正解を言えば言うほど、コミュニケ―ションが成立していくことにつながる。ミルトン・エリクソンはこういうやり方の達人だった。分裂病のことがよく分かると、ミルトン・エリクソンのやっていることがよく分かるようになる、そういう感じを僕は経験したことがある。
このケースでは、患者は質問者の質問の文脈からは離れていない。コインが何枚ですかと問われて「それはバラの花です」とか「東京には行ったことがありません」とか、的外れの応答、別文脈の応答をしていないことが分かる。これは患者の拒絶が部分的であることを示しているわけであり、ある程度までthの影響下に居続けることができているように僕は思う。
コインのやりとりを見よう。3枚のコインを提示されて、最初は6枚と言い、次は2枚、その次に4枚と患者は答える。「3」という数字には絶対に触れないようにしているわけだ。thは2と4の間の数を言えばいいと正答に導こうとするが、この圧力に対して「25000」と患者は答える。ここでも「3」は回避されているのだけど、これだけ桁外れの数字を言うことは、これ以上このやりとりを続けることの拒否である。「3」に近い数字を言い続けると、いつまでも「3」に誘導されてしまうからである。「都合がいい」というのは、まさにその通りだという気がしてくる)
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)