12月15日(土):腰の痛み
昨日、無理な姿勢で仕事をしていて、腰を痛めた。昨日はそれがとても痛かった。動くのも大変だった。一晩休めたらそれで何とかなるだろうと、僕は安易に考えていた。それで一晩、横になって休める。いや、夜だけではない。昨日はできるだけ横になって過ごすようにしていた。無闇に動き回らないように注意していた。
その甲斐あってか、今朝起きた時、痛みは幾分ましになっていた。今日は一日中外出する用事がある。これくらい回復していれば、なんとか一日こなせそうだとは思っていたけれど、何かと不便なことも多かった。立ったりしゃがんだりはまだしも、腰を屈めたり、中腰になったりする時はけっこう辛い。
その辛さも主に午前中までで、午後はさらにましになっていた。夜になると、それ以上にましになってきた。この分ではもう1、2日で元に戻りそうだという予感がしている。これを書いている現在、まだ多少の痛みは経験しているものの、回復の期待を抱いていると、少しくらいの痛みは全然苦にならない、そんなことを体験している。
痛みが苦しいのではなくて、その痛みにまつわる感情が苦しいものだと、僕は改めて実感した。いや、痛みもやはり辛いものだし、できれば痛みを経験したくはないと思う。それでも、痛みそのものの苦しみよりも、その痛みによってもたらされる感情の方が僕には苦しかったのだ。
昨日、腰を痛めた時、真っ先に僕の心を捉えたのは、今日のことだった。今日は一日中外に出て動き回る用事が入っていた。これをこなせるかどうかが心配になっていたのだ。心配と言うか、不安である。この不安の方が、腰の痛みそのものよりも、僕の心を捉えて離さず、僕を苦しめていたのだ。動くと確かに腰に痛みが走る。でも、この痛みは、どちらかと言えば、瞬間的なものだ。その瞬間に痛みを感じるけれど、次の瞬間には消えてなくなっている類の痛みだ。その場限りのものだ。ところが、不安の方はいつ何時であれ、僕にまとわりついて、僕に憑りついて離れない。不安とか心配というのは、そういう粘着的な性質をもつもので、これに囚われると本当に苦悩することになる。
不安に囚われているクライアントと会うことも多いし、彼らからどうすれば不安から逃れられるかと尋ねられることも度々ある。これは答えるのは簡単な問いである。ただ、それを実行することの方がはるかに難しいのだ。不安からどうやったら逃れられるか、それは単に希望を持ちさえすればいいというだけのことだ。腰を痛めた時、この種類の痛みなら一晩休めたら何とかなるだろうと僕が捉えたことも希望の一種だ。しかもこの希望は根拠なく抱いているのではない。過去にそうして痛めた経験もあり、その時の記憶に基づいているのだ。そして、徐々に回復していくのを実感している。この調子でいけばあと1,2日で元に戻るだろうと捉えることもまた希望である。
もっとも効果的な不安対処法は、希望を持つことである。希望を持てないから不安になるのだと思う人もあるかもしれないし、それは正しいかもしれない。それでも無理をしてでも希望を持つ方がいいと僕は思う。その希望も、より現実的で根拠のある希望であればなおさらいい。僕はそういう考え方をするのだが、いかがなものだろうか。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)