<#015-12>2回目面接解説編(3)
S氏の2回目面接を追いながら解説を続けます。
(17)T:そうですか。僕は義母にはそんなふうに映るのですな。それで二か月近くガマンをしてきたということですか。
(18)S:そうですね。前回から二か月ほど経ってるので、そうなりますか。
(19)T:もっと早くキレてもよかったのにね。
(20)S:(驚いた風。次いで笑みを浮かべる)そう思いますか。(T:ええ)。先生は変わった考え方しますね。
(解説)義母にとって、私は「加害者の味方をするカウンセラー」であり、S氏が義母にとって都合の悪い考え方をするのは私による催眠とか洗脳のためであり、私はそういうことをする人間であるということになるようです。こういうのは支離滅裂な思考であるように私には思われるのです。そもそも、S氏が私と会う以前からこの問題は起きているのだから、義母の理屈は時間的にも成立しないものであります。しかし、義母のことはどうでもいいのであります。私は話題を変えています(17)。この二か月間彼がガマンしてきたということを押さえています。ちなみに、「ガマンしてきた」というのは私の解釈が入り込んでいるのですが、彼が体験してきたところのものからそうかけ離れてもいないだろうと思います。
彼は二か月の開きがあることをあまり意識していないようであります(18)。それよりも、前回から二か月の開きがあることと、その間彼がガマンしてきたことと、(17)の私の発言にはその二つの要素が含まれているわけですが、彼は一方にだけ反応し、他方は無視しているという印象を受けます。彼は自分がガマンしてきたということをどこかで否認しているようにも思えてきます。
(19)で、私は、二か月も待たずに、もっと早くキレてもよかったのにということを言います。こういう発言から加害者の味方をしていると思われるのもしょうがないかもしれないとは思うのですが、そうではなくて、「そこまでガマンしなくてもよかったのだ」ということを伝えているのであります。ついでに言うと、彼がガマンしてきたということを彼は否認しているとしても、間接的にと言いますか、暗に示す形でそのことを伝えているのであります。
ところで、これはDV問題なんかではけっこう大切な視点であります。当事者はそこが分からないことが多いのです。どこまでガマンしてよくて、どこからガマンしてはいけないのか、その境界線が不鮮明なのであります。このことは加害者立場の人であれ、被害者立場の人であれ、同じであると私は考えています。
私の発話に彼は驚きます(20)。次いで笑みを浮かべるのは、彼の中で何か安心できるものがあったからだと思います。おそらく、通常ならそんなこと(キレること)をしてはいけないなどと言われるものと予期するだろうと思います。しかし、この見解はすでに不公平感が含まれていないでしょうか。キレそうになるほどガマンしているのに、キレてはいけないと言われる方が彼にとって辛いことではないかとも思うのです。
それよりも、彼は自分がガマンしているということを否認しているようであると私は印象付けられています。もっと早くキレてもよかったのにとは、そこまでガマンしなくても良かったのにということを暗に示していて、彼が本当にガマンなどしていないのであれば、この私の発言に彼は違和感を覚えるだろうと思います。では、彼の反応はどのようなものでしたでしょうか。
彼の反応は、最初は驚きでした。その後で安心したかのように笑みが見られるのであります。この反応から、彼が否認したいのは、ガマンしているという点だけではなく、彼がキレてしまったという点にもあるのであって、両者が彼の中で結合しているようであるということであります。一方を否認すると同時に他方をも否認しなければならなくなるという関係があるのだろうと思っていました。「もっと早くキレてもよかったのに」は、ガマンすることもキレることも、その両方の正当性を認めるものであるので、彼にとっては安心感があったのだろうと私は推測します。そういう安心感が得られるということであれば、やはり両方が彼に圧し掛かっていたのではないかと思う次第であります。
続けて、彼は私が変わった考え方をすると言います。彼にはそう見えるだろうと思います。私から見ると、妻・義母たちの方が変わった考え方をしているのです。彼はその中で生活をしているのです。だから、彼には妻・義母たちの考え方には馴染みがあるけれど、私の考え方は新奇に見えるので、変わった考え方のように見えるだけなのだと私は思うのです。
しかしながら、より正確に理解するなら、私の考え方が変わっているということではなく、S氏にとって、今の(当時の)彼が出会うことのなかった性質の思考として彼には体験されていたのだろうと思います。では、それがどういう性質のものであるかということですが、私の見解では、妻と義母の思考(彼に馴染みのある方の思考)は彼の罪悪感を高める方向に作用するものであり、私の思考は彼の罪悪感を低下させる作用を持つものであるということです。実際、彼に限らず、カウンセリングで特に大切なことはクライアントの罪悪感を軽減することにあるので、その目的に沿って私は応答しているのであります。どこまでそれが上手く行っているかは別としても、彼の罪悪感の軽減が目指されているのであります。
余談でありますが、罪悪感は個人の改善にはほとんど役に立たないと私は考えています。本当に罪がある人が反省するという場合でも、その人は、自分の罪ではなく、自分の罪悪感だけを見ているという場合がけっこうあると私は考えています。罪を償っているつもりでいて、実は罪悪感を解消しよう(さらに悪いことに罪悪感に囚われているだけの場合もある)としているだけというような例もけっこうあると私は思うのであります。従って、罪悪感というものはできるだけ排除した方が、本当に自分の罪と直面できるのであり、そこから贖罪の道が開けると私は考えています。
いずれにしても、罪悪感はその人が本当にしなければならないことを見えなくする働きがあると私は考えています。罪悪感が覆いをかけてしまうのであります。罪悪感を低下させるとは、その人に罪がないということを保証するものではなく、その人が何をするべきかが本当に見えるようになるために必要な作業であると私は考えている次第であります。
さて、余談を挟んでしまいましたが、解説を続けましょう。私の考え方が変わっているかどうかは別として、こういう体験は望ましいことであると私は考えています。つまり、クライアントにとってカウンセリングで新しい何かが発見できること、その可能性が秘められているとクライアントが体験できるのは望ましいことであります。それがカウンセリング継続の動機づけともなり、今後の希望につながるからであります。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)