#009-27>AC問題に関する随想(8) 

 

(キツネの方がまし) 

 ACの人たちを見ていると、人類が本当に進化したのだろうかと疑いたくなることが私にはありまして、彼らが「親のせいでこうなった」などと親を「攻撃」している姿を見ると、人間であることにたまらなく嫌気がさすことが私にはあります。 

 一昔前においては、ある個人に何かよくないことが起きると、それはキツネがとりついただの悪魔が憑依したなどと言われたものでした。そして、それらを追い払う儀式がなされたのでした。あるいは、自分の人生が上手くいかなくなると、自ら厄払いしたりしたのでした。 

 現代の私たちがこういう話を聞くと、恐らく、それは迷信だと言うでしょうし、非科学的で根拠がないなどと反論することでしょう。しかし、本当に現代の私たちはその迷信を克服しているのでしょうか。 

 かつてキツネが原因とされていたものが、今では親や家族が原因だと言われ、単に原因とされている部分が入れ替わっただけであるとは言えないでしょうか。私はそう思うことがあります。 

 もし、ある家の子供が仕事もせず、ボンヤリと日を過ごしているとすれば、その子は気がふれていて、キツネに憑かれたと考えられたかもしれません。村人たちはこの子供からキツネを追い出すための折檻をするかもしれません。 

 今、子供が仕事もせず、ボンヤリと日を過ごしていると、その子は引きこもりで社会的不適応者で、親の育て方が悪いなどと言われたりします。人々はこの親を責め、ひどい時にはその子自ら親を追い出すために暴力を振るったりします。 

 迷信の時代から、人間は本当に進歩したのでしょうか。 

 このように言うと、ACは迷信と言うのかと批判されそうであります。一応、ACという考え方は理論として認める立場を私は取っているので、AC理論自体は迷信ではないと考えます。しかし、原始的な心性がAC理論と結合した時には問題があると私は言いたいのであります。 

 親が子供にとっていくら影響力があるとは言っても、親の子育てで子供の人生がすべて決定されるわけではないのです。そのように信じてしまうことが迷信的であると私は思うのです。 

 

(執念深いのはどちらか) 

 先日、ちょっと驚く経験をしました。ケータイを家族契約するために父が契約してきたのでしたが、その契約書には家族の氏名と生年月日を記入する欄がありました。私の個所を見ると、生年月日が間違っているのです。父に尋ねると「忘れた」という答えでした。我が子の誕生日を忘れた上に、私や母に確認することなく、適当な日付を父は書いたのでした。その契約書では、私はクリスマス生まれになっているのです。 

 父親が私の誕生日を知らないということは、私にとっては何でもないことであります。それは父の問題であって、私の問題ではないのです。ここで私が激怒して「息子の誕生日も知らんとはどういうこっちゃ」などと怒鳴っても無意味であります。親が私の誕生日を知らないということは不幸なことでもなんでもないのであります。 

 AC者なら、きっとこういう場面でひどく傷つくのでしょう。私も幼かったら傷ついていたかもしれません。 

 もう一つ最近私が経験したことを話しましょう。あるAC者に「大人と子供と執念深いのはどちらだと思いますか」と尋ねたところ、彼は躊躇なく「大人でしょう」と答えたのでした。本当は逆なのであります。 

 子供は執念深いのであります。もし、楽しみにしていたジュースをこぼしてしまったとしたら、子供はいつまでも恨むのです。なぜそこまで恨むのかといえば、自我が十分に分化されていないので、一つの出来事のダメージが大きくなるのであります。加えて、時間展望が十分にできないので、目の前のものがすべてであるように認識してしまうからであります。つまり、今日のジュースは残念だったけど、次の機会があるさ、次はもっと美味しいジュースが飲めるかもしれない、などとは考えられないということであります。今、それを失うということが決定的になるのです。 

 私にはそこにAC者の矛盾を認めることができるように思います。親を断念できれば大人と言えそうです。しかし、親を断念することができず、いつまでも執念深く親を怨むということをしているのですが、それをしている限り大人にはなれないのであります。ACから抜け出そうとして親を諦めないのですが、それをすればするほどACに留まってしまうのであります。問題解決のための試みが問題維持に貢献しているわけであります。 

 

(強要態度) 

 その人が断念することができなければできないほど、その人は他者に自分を強要することになるでしょう。ある程度受け入れてもらえればそれで十分で、受け入れてもらえなかった部分は諦めることができれば、この人は自分を受け入れるようにと相手に強要することはないでしょう。 

 一部のAC者はこのような強要的な態度を取ることがあります。自分のすべてを受け入れよとか、自分の要望はすべて満たせなどといった強要を、親に対して、していくのであります。ごく「普通」の親は、無理なものは無理だと言うでしょうし、できることとできないことの区別をつけるだろうと私は思います。こういう親は彼らからすると「毒親」と映るのかもしれません。しかし、「良い」親はそれを叶えようとしてしまう、そのように私は思います。それを子供を受容するということと間違えるのです。 

 もし、このAC者が「神経症的」な人であれば、この強要的態度が通じなかった時、砂を噛む思いで諦めをつけていくでしょう。しかし、彼が「精神病的」であれば、強要が通じなかった時、彼は破綻するでしょう。「病態水準」が深いほど、その場面から受けるダメージは大きくなると私は思います。そうしてさらに強要的な態度を強めることになるかもしれません。彼にあっては、少しのことでも諦めることができないのであります。自分が大切にされているとは、自分のすべての要望に応じてもらえていることであり、9割に応じてもらえても、1割の不満ですべてがダメになってしまうのです。私はそのように考えています。その1割でさえ断念ができないのであります。そして、この1割の不満を執念深く持ち続けるのです。 

 

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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