<#009-23>AC問題に関する随想(4)
(心理学の理論)
ここから理論という問題に入っていくことにします。
ACは一つの理論であります。私はAC理論を支持していませんが、そういう理論が存在することに反対はしません。というのは、さまざまな理論が共存している方が学問は豊かになると思うからであります。
問題は、ある理論が正しいとか間違っているといった議論ではなく、理論がどんなふうに利用されるかというところにあります。そのために、少し煩雑にはなりますが、心理学の理論ということについて項を割くことにします。
(検証される部分はどこか)
けっこう古い学者さんですが、矢田部達郎という心理学の先生がおられました。私が非常に尊敬している心理学者の一人なのですが、その矢田部先生の説明から拝借させていただくことにしましょう。
私たちは人間関係の中で生活していて疑問を抱きます。なぜあの人はああいうことができるのだろうか、なぜ自分はそういうことをしてしまったのだろうか、などといった疑問を抱きます。
私たちはそうした疑問に対して、当て推量的な回答を思い浮かべます。あの人がああいうことをしたのはきっとこれこれのせいだなとか、私がそれをしてしまったのはあれこれのせいだといった回答を思い浮かべます。
こうして思い浮かべた解答に対して、もう少し根拠を与えたいと思う時、心理学が要請されると矢田部先生は言います。「心理学は『なぜ』に対する解答を、『一般に言って如何なる時に何が起るか』という回答を通して間接的に与えようとするものである」とある論文で書いておられます。
これには私も賛同します。理論が用いられる部分は、私が思い浮かべた解答に対してであります。理論は私の見解に適用されるものであり、他者に適用されるものではないのであります。さらに言うと、理論は間接的にしか応じられないものであり、私の思い浮かべた解答は、理論の助けを借りて、さらに推敲されていくものなのであります。
そして、この「なぜ」という問いの根拠は、「何を」と「如何に」に対する秩序だった(つまり体系化された)知識にあると言います。どういうことかと言いますと、体系化された理論に基づいて「なぜ」という問いに向き合わなければならないということであり、倫理や価値を根拠にして「なぜ」に向き合うのではないということであります。
最後の部分は特に重要であります。例えば、なぜあの犯人はあのような極悪非道な行為ができたのかと問われ、専門家が見解を表明するという場面があるとしましょう。その時、専門家の説明を聞いても腑に落ちないとか納得できないといった経験をされたことはないでしょうか。その時、あなたの「なぜ」には倫理的な色彩が色濃く含まれているのかもしれません。その専門家はそうした倫理的観点を抜きにして説明しているので、あなたにとっては求めているものとは違ったものとして受け取られたのかもしれません。
心理学の理論は、そもそもの最初から、倫理観や価値観を除外しているのです。従って、その理論を利用する時に、自分の倫理観や価値観を過度に混入させてしまうと、それは理論の活用が間違っているのです。
一般の人が間違えてしまう部分として、心理学の理論は自分の解答(見解)を検証するために用いられるものであり、自分の物の見方、考え方に適用されるものであります。それを相手に適用するのは間違っているのであります。続いて、理論は倫理や価値からは自由なものであります。理論の利用に倫理や価値を過度に持ち込んではいけない、つまり誰かを裁くために理論は利用されてはいけないのであります。倫理や価値の問題は心理学の理論とは別のものであるので、両者を一緒にして提示してはいけないのであります。心理学的にこういわれているからあなたは間違っていると言う場合、理論を他者に適用させていることと理論を倫理に重ね合わせているという二重の過ちを犯していることになるわけであります。
(理論は分有である)
次に一般の人が間違いやすい点は、理論が一部分だけを取り上げているという観点を見失ってしまうところに起因します。
どの理論も人間から生まれるものであります。人間に関する理論も生み出したのは人間なのであります。人間と理論との間には、生み出した者と生み出された物との関係があるわけです。
ギリシャ哲学では、生み出した者の方が生み出された物よりも「大きい」という考え方をしています。製作されたものが製作者以上のものになることはないのです。しかし、生み出された物は生み出した者の何かを「分有」していると考えるのです。従って、生み出された物は、生み出した者の一部を分け持っているけれど、生み出した者のすべてを有しているわけではないということです。
私はこうして文章を綴っています。これらの文章は私の一部を分有しているでしょう。しかし、これらの文章が私のすべてを表わしているというわけではありません。このことはどの人においても該当するものであります。
ある人が自分の服装をコーディネートしたとしましょう。彼のファッションは彼の一部を表現しているとは言えますが、そこで表現されているものが彼のすべてではないのであります。
どのような心理学理論であれ、そこで取り扱われているのは人間の一部であります。理論を生み出したのが人間である以上、その理論が人間の全体を表わすことなんてあり得ないわけであります。生み出されたものは生み出した者の一部しか取り上げていないのであります。
要するに、心理学の理論として述べられていることは、どのような理論であれ、人間の全体をカバーするものではなく、あくまでも一部分だけを取り扱っているということであります。
問題となるのは部分を全体にしてしまうことであります。もし、あなたが心理学の本なんかを読んでいて、「まるで私のことが書いてある」と感じたり、「ここに書いてあることはすべてピッタリとあの人に当てはまる」といった経験をしたとすれば、それはあなたの何かが間違っているのであります。人間から生まれた理論である以上、一人の人間に完全に適合するような理論なんて存在せず、ある一部分だけが適合しているものなのであります。この時、あなたはその一部分をもって全体にしてしまっているのであります。そういう誤りを犯しているということになるわけであります。
AC問題ではこのことが特に重要になります。本来、一部分にすぎないところのものを全体としてしまうと、その一部分以外の領域はすべて除外されてしまうことになります。毒親の理論をもってそれが親の全体であると認識してしまうと、親の中にあって毒親以外の部分というのは無に帰されてしまうのであります。こうなると、視野が狭窄するだけでなく、現実をかなり歪めてしまうことになるかもしれません。
毒親というような理論が仮に正しいとしても、毒親理論は親の一部分だけを取り上げているという観点を見失ってはいけないのであります。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)