#009-22> AC問題に関する随想(3) 

 

(同じ問題の反復・継続) 

 AC者は過去と現在に因果を訴えますが、その因果が成立しない諸要因を彼ら自身が表明しているのです。因果と捉えると彼らの因果説明には矛盾が生じるのです。しかし、因果を取り除くと矛盾は解消するのです。彼らが自分の因果説明に矛盾を感じないというのは、実は彼らも本当は因果を見ていないためであるかもしれません。そうであれば、彼の中では何一つ矛盾など生じていないということになるでしょう。ただ、因果ではないものを、因果のように表現しているだけないしは思い込んでいるだけで、案外、彼らは正しい認識をしているのかもしれません。ただその認識は無意識であるのかもしれません。 

 もし、過去の問題が原因となって現在の問題が生じているのであれば、両者は異なる問題である(彼らはこれを否定します)か、過去の問題から新たに発生した問題であり、この場合では過去の問題が何らかの形で解決されている(彼らはこれも否定します)必要があると私は思います。 

 後者の場合、過去に解決した問題が(その解決が)原因として働いて、新たな問題が生まれたということになります。この場合、肝心なことは、過去の問題が一度は解決されているという前提がなければならないというところにあります。そうでなければ一つの問題がただ継続しているだけになるからです。 

 おそらくそういう例は探すとたくさん見つかるでしょう。アスベストの問題を考えてみましょう。アスベストは断熱し、燃えないのだそうです。それを活用することにより、火災をかなり防いだことでしょう。かつて大火事になっていたことが小規模の火災で済み、火事で死傷する人がかなり軽減したことでしょう。ビル火災という問題はこれによりかなり解決されていったのですが、この時の解決策がアスベスト被害という新しい問題を生み出したわけであります。繰り返しになりますが、この場合、アスベストを使用せずに火災を防ぐにはどうすればいいかというアプローチとアスベスト被害に遭わないために(現在では使用が禁止されていても、解体現場などではこれが問題になっています)はどうすればいいかというアプローチの両方が可能であります。 

 さて、彼らの話においては、過去の問題と現在の問題とは別種のものであるとも、一旦解決した過去問題から新たな問題が発生したのだという認識も、どちらもあまり聞くことができないと私は感じております。この点においても、因果ではないものを因果のように彼らは話しているように私には聞こえるのです。 

 では、それが因果ではないとすれば、何なのかということですが、それは両者が同じ問題であるということです。もし、過去の問題が解決されることなくそのまま放置されているのだとすれば(彼らはこれを言うのです)、その問題は形を変えることなくそのまま継続していると考える方が理に適っているように私は思うのです。実際、彼らは過去の問題を、解決済みの問題として、あるいは処理済みの問題として語ることはないのです。継続中の問題として彼らは話すのです。そこには因果は成立していないのです。 

 同じ問題が継続しているとすればどういうことになるでしょうか。それはこういうことになるのではないかと思います。「過去において、親(ならびに家庭環境)に適応できなかったのが、今は社会(学校などの環境)に適応できない」ということではないでしょうか。子供時代に問題であったことが、今でも同じ問題として経験されているということではないでしょうか。違うのはその問題が生じている状況だけであり、その問題の本質的な部分は変わっていないのではないかと私は信じております。 

 ここが重要なのですが、現在の問題と過去の問題とが同じ(あるいは類似性がある)であるからこそ、両者が彼の中で結合されるのではないでしょうか。彼は因果のように述べるけれど、本当は同じ問題であるということを訴えていると考える方がより現実的であるように私には思われます。 

 そのように考えると、現在の問題(つまり、どちらか一方)にだけアプローチしましょうという提案を彼らが退けたがるのは当然であります。両者は同じ問題であり、同じ問題であるからこそ切り離せないのであります。少し言い過ぎであるかもしれませんが、彼らの態度は二つの問題が同じ問題であることをしばしば証明しているように私は感じております。 

 さらに、過去の問題と現在の問題と、一つの問題が継続しているということであれば、その間の期間もそれが継続していたはずであります。これはAC者によって異なるのですが、それが確認できることもあります。子供時代の問題は現在まで継続しているだけでなく、児童期においても青年期においても、やはり同じ問題で苦しんでいたことを認める人もおられるのです。仮に、その問題が発生することがなかったとしても、それはその問題が顕在化しない状況であったかもしれませんし、意識されることがなかった(意識が他の方に向いていたなど)のかもしれません。 

 ずっと継続していたという意識を持っていない場合、それは「反復」として経験されていることが多いようです。定期的にと言いますか、何かそれを惹起する状況が揃った場合のみ問題が顕在化されるというような例であります。継続して起きている問題ではなく、繰り返し生じる問題であるというように当人には把握されていると思います。 

 いずれにしても、それが継続している問題であれ、反復して現れる問題であれ、一つの問題が続いているという点では相違はないと考えてよさそうであります。 

 

(なぜ、因果のような話になるのか) 

 本当は因果関係にない二つの問題なのです。そして、彼ら自身、そのことを承認しているようなことを言うのであります。彼らは、薄々であれ無意識的にであれ、そこに因果が成立していないことを知っているのではないかと私は思うのです。しかし、彼らがそれを話す時は因果のように話すわけであります。場合によっては、その時には因果関係があると信じられているのかもしれません。 

 後に詳しく取り上げるつもりでいるのですが、ここで少しだけ先取りして述べようと思います。なぜ、彼らはそれを因果関係のように話すのかという問題であります。 

 理由の一つとして、因果で説明されると安心できるということが考えられそうです。原因はこれであると説明される、ないしはそのように考えることができると、それだけで現状が耐えやすくなるという傾向があると私は思います。しかし、これはその場限りの安心で終わることになるでしょうし、その安心にしがみつこうとすればするほどこの因果に囚われなくてはならなくなるだろうと思います。 

 もう一つの理由として、彼らが「主体の言葉」を喪失していることが挙げられるように思います。「子供時代の父親のせいで今の自分がダメになった」とAC者が言う時、この文章には主体の言葉が欠如しているのであります。あたかも「雨が降ったせいで遠足が中止になった」というのと同様の文章であります。 

 「主体の言葉が喪失する」というのは後に詳しく述べる予定をしておりますので、ここでは簡潔に申し上げておくことにしますが、それは主体を客体として話すということであります。主体が主体として話すのではなく、主体を客体化して話しているのであります。 

 主体が主体としての言葉を発せなくなるのは、その主体の中で主体性が失われているからであります。回りくどい叙述ですが、要するに、主体を把握し、主体を表現するところの主体が弱まっているためであるということであります。 

 その人の主体が弱まるということは、その人が周囲の事物に翻弄されるようになることを表わします。周囲にものすごく影響されてしまうのです。治療の場面でもそれが起きると私は思います。その点に関しては、外国の記憶論争の個所でも取り上げることになるでしょう。 

 

 さて、本項でもって因果の話から離れようと思います。彼らは因果を話すけれど、本当はそこには因果なんて存在していないのであり、一つの問題が継続しているようであるというところまで話が進んだので、以後は因果関係抜きで考えたいと思います。 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

PAGE TOP