#009-19>AC信奉者における葛藤処理(3) 

 

(高い感情価) 

 二人の事例を通して、義務と感情の葛藤が生じる場面では、彼らは葛藤を経験する以前に、感情に従うという仮説を立てました。この仮説に従えば、彼らにとって自分の感情というものの価値が非常に高いということが言えそうであります。これを感情価が高いと表記しましょう。 

 感情価が高い場合、物事の判断等においても感情が優位を占めるということが生じやすくなると思います。私はそれを「感情的正当性の優位」と呼んでいますが、それは後で取り上げましょう。 

 物事の判断、自分の行動規範、さまざまな選択、そうしたものがその人の主観的感情によって決定されるとなれば、周囲と軋轢を生むことも生じやすくなるでしょうし、自分勝手と評価されるような言動も増えてしまうことでしょう。主観的な感情の価値が高いと、どうしても自己中心的な言動や態度が増えてしまうことと私は思います。 

 

 私たちはAC信奉者が葛藤状況においてどのように振る舞うかという場面を見ています。二つのケースを提示して、その葛藤は義務と感情との間に生まれる葛藤であることを見てきました。そして、義務と感情の葛藤においては彼らは感情に従うという仮説を立てています。彼らが感情に従うのは、彼らにおいては感情というものの価値が非常に高いためであり、そのため感情的正当性が優位である可能性があると考えてきました。 

 感情的正当性とは、あることが正しいか否かなどの判断がもっぱらその人の主観的感情に基づいているということでした。快感情をもたらしているものは善であり、正しいことであると判断され、不快感情をもたらすものはどんなものでも悪であり、間違っていると評価してしまうというものであります。 

 このような傾向は児童期においては優勢であります。というのは、児童においては物事の判断や選択をする場面において、自分の感情のほかに頼れるものがないからであります。その点を少し補足しておきましょう。 

 

 私たちが葛藤状況においていずれかを選択しなければならない場面や、何が正しいかの評価・判断する場面においては、私たちは多くの手がかりや資源を活用します。児童においてはそのような手掛かりなり資源なりが十分身についていないので、どうしても自分の感情に頼ってしまうと私は考えています。 

 どのような資源等が考えられるでしょうか。 

 まず、葛藤状況においては、決断するまでの間その葛藤状況に身を置くことになります。引き裂かれるような思いをしながら、その状況に身を置くことになります。辛い状況に身を置くだけの強さが求められるということになります。どっちつかずの不安の中で耐える力、つまり不安耐性が求められることになります。 

 また、いずれかを選択し、決断するということは、核となる自己が不可欠であります。もし、その核の部分が欠いているなら、その人は延々と逡巡し続けることになると私は思います。 

 さらに、こういう時はこれを選択するとよいとか、その人なりの基準なりルールなりがあったりします。それはその人の経験で身についたものであります。経験上、こういう場面ではこっちを選択するのが良いと分かっていたりします。児童においては、経験が乏しいので、困惑場面に晒された時に、参照できる過去経験が欠けていたりするわけであります。 

 思考の発達や視野の広がりという要素もあるでしょう。いずれを選択するか、熟考し、後々の見通しを立てたり、周囲にどのような影響を及ぼすかを考慮に入れたりすることでしょう。児童においては、思考がそこまで発達していなかったり、視野が狭かったりすることでしょう。どうしても目先のこと、直近の範囲内でしか思考できないかと思うのです。 

 成熟していく中で身に着けていくこともたくさんあり、それらは、困惑させられるような状況に直面しても、それを乗り越えるためのさまざまな資源となるわけです。児童においては、それが乏しいので、どうしても自分の感情に頼る度合いが高くなることでしょう。そのため、児童にあっては感情的正当性が優位の傾向が目立つと思われるのです。 

 

(葛藤の経験) 

 さて、話を葛藤に戻しましょう。AC信奉者たちは葛藤を経験しているか、本節ではそれが最大の謎であります。 

 義務と感情との葛藤においては、彼らは感情に従うのですが、それ以前に葛藤状況にどれくらい身を置いているのでしょうか。 

 当然、ここには、まったく葛藤を経験していない場合から、長時間葛藤に身を裂かれる思いをしたという場合まであるでしょう。すでに述べたように、彼らはここを明らかにしてくれないのであります。その時の感情、あるいは事後の感情を彼らは強調されるのであります。 

 彼らがそこでどういう体験をしているか分からない以上、こちらであれこれ推測していくしかなくなるのです。少し、それをやってみようと思います。 

 

 まず、葛藤を全く経験しなかったという場合から始めましょう。 

 一例目の女子高校生のケースでは、この場合、猫の死骸を発見して、即座にネコの埋葬に向かったことになり、二例目の会社員男性のケースでは、社屋の汚れを見て迷うことなくそこの清掃にとりかかったということになります。 

 この場合、彼らは慈善や善意からそれをしたということにはならないのです。葛藤を回避するためにそれをしたという意味合いが濃厚になるのであります。葛藤を抱える(これ自体不快感情体験であります)以前に、それが解消されているからであります。葛藤が生じて当然の場面で葛藤が形成されていないので、葛藤は回避されたと考えることができるわけであります。ある意味では、当人自身が苦しまなくて済むような方策を取っているということになるわけであります。 

 

 次に、多少なりとも葛藤を経験している場合があります。行動に移す前に「どうしよう」と困った状態があるという場合です。 

 この「困った」という体験(葛藤に身を置いている状態)において、ある人はパニックに陥るかもしれませんし、ある人は孤立無援感を強く体験してしまうこともあるかもしれません。助けてほしい時に誰も助けてくれないという状況は、その人の子供時代の経験を連想させてしまうこともあるかもしれないのですが、私たちはそこで児童期まで話を広げないようにしましょう。 

うことが言えそうであります。ただ、その困惑状況において自分を当てにできなくなっているということが言えると思います。そして、自分を当てにしようとすれば、そこにあるのは自分の感情だけなのではないかと私は推測します。自分の感情しか当てになるものがその人にはないということであります。こうして、彼らは自分の感情に従うのかもしれません。 

 

 最後に長時間葛藤したという場合もあるでしょう。一例目で言えば、猫の死骸を見つけて、どうしようかと迷って、一旦は学校に行くもやはり気になってネコの所に戻って、やっぱり学校へ向かっては後ろめたい気持ちになって猫のところに戻ってということを繰り返したといった場合であります。 

 上記の場合よりも、より葛藤状況に身を置いていることになります。しかし、ここではいかなる決断もなされてはいないのです。ひたすら逡巡していることになるわけで、これはむしろ決断の方を回避していると考えることができそうであります。最終的な決断は自分の感情に従うということになるわけでありますが、これは決断を回避していることになるのかもしれません。本当は何の決断もしていなくて、ただ感情に従ったというだけのことなのかもしれません。 

 

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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