#009-17>AC信奉者における葛藤処理(1) 

 

(はじめに) 

 AC信奉者たちについては多くのことを記述していかなければならないように私は感じています。それというのも、ACという括りが広すぎるためであります。あらゆる人がACの範疇に含まれてしまう、そこにAC理論の欠点があると思うのですが、その欠点のために多種多様の事柄を述べなくてはならなくなるのであります。 

 本節で取り上げるのは、彼らが直面するある場面についてであります。その場面を通して彼らのことを少しでも理解したいと思います。 

 尚、AC信奉者を理解するためには、ACという概念など用いない方がいいのです。その概念を用いない方が彼らのことをよく分かる上に、よく伝わるのではないかと私は考えています。 

 まずは具体的な場面から始めましょう。最初に取り上げるのは一人の女性の高校生時代のエピソードです。 

 

(ケース・一女性の高校生時代のエピソード) 

 この女性は私が直接お会いしたわけではありません。ある書評、AC系の本の書評の中で紹介されていたものです。 

 彼女が高校生の時のある日、彼女はいつものように登校していました。その途中でネコの死骸が路上に放置されているのを彼女は見つけます。彼女は猫が可愛そうに思ったのか、その死骸をくるんで、どこか川べりか林かまで運んで、その猫の死骸を埋葬してあげたそうです。それから学校に行ったものの、先生からは厳しく叱られ、母親からもひどく叱責されて、彼女は傷ついたそうであります。 

 さて、このエピソードに基づいて、いくつかのことを考えてみましょう。 

 

 路上に放置されているネコの死骸を埋葬してあげるなんて、この子は心の優しい人だとお思いになられる方もいらっしゃるかと私は思うのですが、私の見解では、彼女の行為は優しさとは無縁のものであります。 

 もし、本当に優しい人であれば、例えば次のような行動を取るのではないかと思います。彼女は登校中のネコの死骸を見つけます。路上に放置されているのを可哀そうに思うとしましょう。優しい人ならどうするか。一つの例として、次のようにするでしょう。彼女はとにかく学校に行きます。そして先生にネコの一件を相談します。それで先生が保健所に連絡しておくから彼女は心配することなく授業を受けるように言ったとしましょう。休み時間に、彼女の方から尋ねてもいいけれど、先生の方から、あれから保健所に連絡して猫の死骸はこれこれの場所に埋葬されたそうだ、と彼女に報告に来るかもしれません。後日、彼女はその猫のお墓参りをするかもしれません。 

 他にも手段はあるでしょうが、あくまでも一例です。本当に気持ちの優しい人であれば、できるだけ他の人に迷惑をかけない形ですることでしょう。 

 彼女の行為は、優しさの表明ではなく、自分勝手さの表明なのであります。先生や母親が心配することなどまったく考慮されていないのであります。 

 

 先生や母親が厳しく叱るのは、彼女のその自分勝手さの部分であります。おそらくこの女性はそこに気づいていないのです。猫を埋葬してあげたのがなぜ悪いのかと彼女は考えてしまったようであります。でも、彼女の気持ちが叱られているのではないのです。 

 そもそも、学校に行くと言って家を出た娘が学校に行っていないとなれば、親が心配するのは当然であります。学校に行くと言って家を出たけど学校に行ってない、それじゃあどっかその辺で遊んでるんでしょう、放っておいてください、などとこの母親は思わないわけです。娘がどこかで事故に遭ったのではないか、事件に巻き込まれたのではないかなど、母親は思ったのではないでしょうか。母親が毒親でなければ、娘の行方が分からないとなれば心配するのは当然であります。 

 母親の叱責が激しかったのは、それだけ母親の心配を意味しているのではないかと思います。娘のことがどうでもいい母親であれば、叱りもしないでしょう。先生もまた同じ気持ちであったのではないかと思います。彼女がどうでもいい生徒なら学校に来ていなくても先生は心配なんてしないでしょう。 

 

 私は個人的にはこの高校生の行動は幼稚であるように思うのです。小学生がやったというのなら話しは分かるのですが、高校生にもなってそれをするかという思いもあるのです。しかし、それは置いておきましょう。 

 この体験は彼女にとっては辛い感情を残したかもしれませんが、少しでも、「あ、何か悪いことを私はしてしまったんだ」と思えたらまだ救いがあります。そこに思い至らないとなると後々問題になると私は考えています。 

 児童期や青年期には人はいろんな失敗をやらかしてしまうものです。彼女もまた一つ間違ったことをしたのであります。それはそれでいいとして、10年後20年後、彼女が20代30代になった時に、高校生の時のあれはやっぱり私が間違っていたななどと見えたらそれでいいのです。10年後も20年後も同じ感情を体験し、同じものが見えているとすれば、彼女はこの10年20年なんの進歩もしていないということになります。 

 

 さて、私が上記のエピソードでもっと知りたいのは、彼女がネコの死骸を発見してから、埋葬に行くと決めるまでの間のことです。その間に彼女にどういうことが起きたのかを知りたいと思うのです。そこに本節のテーマがあるのです。 

 つまり、彼女は一方では学校に行かなければいけないと思っています。だから猫を埋葬した後に学校に行っているわけであります。しかし、他方ではこの猫をこのままここに放置していくことに耐えられない思いがしています。だから行動化したのでしょう。 

 焦点を当てたいのは、この葛藤を彼女がどのように処理したのかという点であります。それが本節の主テーマになるのですが、彼女は一体そこでどうしたでしょうか。多少なりとも迷ったでしょうか、それとも迷うことなく行動に移したでしょうか。あいにく、そこは不明であります。 

 AC信奉者の話を聞いていると、上記のようなことは普通に遭遇します。彼らは葛藤の部分を表現しないのです。出来事は話すのです。それに続く感情も吐露します。しかし、そこで体験されていたであろう葛藤については、なんら話さないことがけっこう多いのであります。 

 果たして彼らは葛藤を経験しているのでしょうか。経験しているとすれば、その葛藤はどのように内的に処理されているのでしょうか。もし、経験されていないとすれば、葛藤の代わりに何がそこに持ち込まれているのでしょうか。 

 

 論述を進める前に、もう一例挙げておきます。本項で述べた女子高校生のエピソードと非常によく似ているエピソードを挙げることにしますが、分量の関係で次項に引き継ぐことにします。 

 

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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