<#009-16>暴力の問題(2)
前項に引き続いて、もう少しケースの考察をしていきたいと思います。
この息子の子供時代は確かにあまり幸福なものではなかったかもしれません。父親は単身赴任が多く、留守にすることが多かったのでした。それにはある事情があり、彼らの生活が苦しかったので、父親は家庭を維持するためには単身赴任でも何でも他の人がやりたがらない仕事も買ってでたくらいだったようでした。父親にとっても厳しい時代があったわけです。
一人残された母親はいつも心細い思いをしていたと打ち明けます。父親がいてほしい時に父親が不在であり、息子のことでも相談できる人や力になってくれる人がいなかったようでした。
息子はその母親の姿を見ているのです。と言うのは、息子が父親に殴りかかる時にそれを言葉にすることから伺われるのです。彼は父親に「俺と母親を不幸にした責任を取れ」などと父親に訴えます。彼には不幸な母親の姿が残っているのだと思います。ついでに言うならば、彼は今不幸なのであり、そこに母親の不幸も重なっているということであり、その両方の責任が父親にあるというように見えているのだと思います。ここにはある種の母子一体感を見て取ることができそうであります。
ただ、息子が見えていないところのものがあります。母親はその不幸な時代を耐え抜いたということです。母親は母親なりにその時代を生きたのでした。
一方、母親の方はと言うと、自分が不幸そうな姿を息子に見せていたことを後悔しています。当時からそういう後悔があったようです。子どもにその姿を見せないようにしようと思っていても、上手くはいかなかったようでした。
母親は息子を可哀そうな子だと見ていました。これは自分の不幸が幾分投影されているものと私は思うのですが、母親は子供を孤独にさせまいと子供を溺愛するようになります。母親もまた子供との一体感を保ったまま子育てをしていったようであります。
職場での父親の地位が安定してくると、父親は単身赴任から解放されるようになり、毎日帰宅する父親になったのでした。それは母親にはかなりの安心感をもたらしたようであります。時に息子は高校生になっており、おそらく、母親の安心感は息子の不登校問題に影響を与えたことでしょう。息子は母子分離の経験をすることになったのだと私は思います。
ただ、この時期に息子の問題があまり大きくならなかったのは、一方で家族が揃っているという感覚が生まれたであろうこと、母親が不幸ではなくなったことが息子を助けたのではないかと私は思います。それでも苦労して彼は高校を卒業し、大学まで進んだのでした。
息子が就職してからのことはよく分からないのですが、これは彼にとって第二の分離体験となったのかもしれません。彼は一年ほどで会社を辞めてしまいます。彼がそこでどういう体験をしたのか、親もよく分からないのです。彼もその時代の話をしなかったようです。以後の展開は前項で述べた通りであります。
人は誰もが分離の体験をするものであります。発達していく上で欠かすことのできない分離というものもあります。このケースの息子は、誰もが経験しなければならない分離をかなり迫害的に経験(あるいは解釈)したように思います。そして、こういう経験をした親が「悪い親」であるように見えていたのかもしれません。そこにAC理論などと遭遇して、その認識が後押しされた可能性があるように私には思われるのです。
その一方で、彼が孤独な時代を生きたことも確かなのですが、この孤独の体験を彼は処理することができないようであります。激しい孤独感に襲われる時、それが怒りに発展するのでしょう、そこから暴力的な行為が生まれるようであります。
問題は、彼が自分の孤独を表現できないところにあるように思われるのですが、これはACなどとは関係がないと私は考えています。自分の孤独を見ることもできず、自分が見放されたと感じ、それに対しての憤りが生まれ、その憤りもまた処理することができないでいるという印象を彼からは受けるのであります。そして、彼は自分の孤独を見る代わりに、母親の孤独を見るのです。
この息子のことはあまり詳しくは分からないので、すべて私の推測の域を出ないのであります。息子のことは母親からの報告に頼るしかないので、母親が報告してくれた範囲内で考えていかなければなりませんでした。
その点を踏まえて、次のように言えるかと思います。彼は母親の孤独を見て、母親の孤独をなんとかしようとして父親に訴えかけるわけですが、そうすることによって間接的に自分の孤独な時代を処理しようとしていたと思えてくるのですが、これは根本的な解決はもたらさないものであります。端的に言えば、母親が幸福になれば即自分も幸福になるといった母子一体の幻想が色濃く感じられるのであります。魔術的思考に彩られているように私には思われるので、彼の試みは必ず挫折することになるだろうと思うのであります。そうして、彼は挫折とか失敗の体験を繰り返してしまうことになり、それがまた彼を苦しめるので、彼の中で悪循環が生じているように思われてきます。
父親の方はどうでしょうか。何度か私もお会いしたのですが、たいへんさっぱりした性格の人でした。家族や息子に対して感情が薄いわけでもないようでした。ただ、父親自身が認めていることでありますが、単身赴任を繰り返していた頃は家族が疎ましく感じられていたそうであり、その時期に関しては妻と息子に申し訳ない気持ちを持っているようでした。
家族と別居している時間の方が長いという生活だったらしく、そうなると家族が遠い存在に思われていたようでした。家族のために頑張ろうという意欲も減少していき、何のために働いているのかという疑問すらも覚えたようでした。一方で、そのような疑問を覚える自分を払拭するために仕事に今まで以上に精を出したようでした。息子からすれば家庭を省みない仕事人間のように見えたことでしょう。父親自身、息子からそのように見えたとしても仕方がないと思っていたのでした。
さて、ケースに関してはまだまだ取り上げたいこともあるのですが、また機会があれば綴りたいと思います。
AC信奉者の問題でも特に問題になるのが暴力であります。暴力を伴うと事件に発展する危険性が常にあるので要注意なのであります。
AC者はこれを暴力とはみなしていないことがけっこうあるのです。それどころか正しい行為であるかのように信じている人もあり、非常に危険なことであります。暴力は、それが頻発するほど自我に親和的となっていくので、それに対しての抵抗感が薄れていくことがあるのです。抵抗感が薄れるとどうなるかと言いますと、暴力行為がエスカレートしていくということになるのです。だから絶対に放置してはいけない問題なのであります。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)