#009-14>自己への没頭(1) 

 

(内向的活動の増加) 

 私たちは行き詰まったり、障壁にぶつかったりして前に進めないと感じると、思考が過去へ向かうことがあります。これは多かれ少なかれ誰にも見られることではないかと私は思うのですが、AC信奉者はこの傾向が過度になるようであります。 

 しばしば、AC信奉者はひきこもりのような状態になるのですが、彼が何をしているのかは家族も分からないことであり、私もあまり当人から話を聞くことができないでいます。インターネットでいろんなサイトを見ていたりするようでありますが、分かるのはそれくらいであり、それ以上のことはまったく分からないのであります。ある意味では、そこは彼の秘密に属する領域であるのかもしれません。 

 時に、彼らはその活動に過度に没頭することがあります。四六時中そればかりやっているような人もあるのです。この状態を自己への没頭とここでは述べています。誤解を招くかもしれないのでこの言葉を使用しないでいるのですが、要するにそれは「自閉的あるいは内閉的活動」ということであります。 

 彼らのその活動は、主に過去の掘り起こしであります。自分の過去に何があったのかということを延々と掘り起こしているようであります。ただし、掘り起こされるのは、自分自身ではなくて、むしろ親であるという印象を私は受けております。 

 そうして掘り起こされたものは、現在において再現されるのです。それは直接的な行動化を通してであることもあれば、間接的な形(例えば感情的になること、退行的になること)で再現されることもあるように思います。 

 そのような再現は、それが過去が過去性を失っており、現在性を帯びていると言えそうであります。つまり、過去は過去として定位できない状態にあるように私には見えるのであります。 

 過去の記憶は現在の彼を占めていくのでしょう。彼のすべてがそれになってしまうのであります。彼が自分に取り組むとは、過去に取り組むことと同義になるわけであります。本当は他に取り組むべきところがあるかもしれないのに、彼らはそれしかできないようになっていくのです。 

 そうして、彼らにとって、この内向的な活動が増加していくことになるのです。これも彼の元々の性格傾向もあるとは言え、彼らのAC信奉後にさらにエスカレートするという印象を私は受けています。 

 

(背景にある敵意) 

 そのような過去の掘り起こし、自己への没頭を、彼らは好き好んでやっているのかと言いますと、どうもそうではなさそうであります。彼らはそれをせざるを得ない感じに襲われるのではないかと思います。彼らのこの強迫的傾向に関しては後に取り上げることになるでしょう。 

 それをやっても好ましい経験をするわけでもなく、また満足することもないということであれば、なぜ彼らはそれをしなくてはならなくなるのでしょうか。何が彼らのその行為を後押ししてしまっているのでしょうか。 

 私はそこに敵意を想定しています。彼らの活動の背景には敵意が潜んでいると仮定しています。従って、過去の掘り起こしは過去に関する事物への復讐の意味合いを帯びてくることになります。そのため、言い換えれば、彼らは復讐に没頭していることになるわけであります。 

 この復讐は、彼らにとって満足のいく形で遂行されないがために、それをひたすら続けなければならなくなるのでしょう。どれだけやっても復讐が果たせないのであります。彼らは、これを延々と続けていけばいつか気が晴れる、つまり復讐が成し遂げられると期待するかもしれませんが、私はそれは幻想であると信じています。彼が期待していることを体験できるためには、彼らは新しい実存を手に入れなければならないと私は考えていますが、それは後に取り上げることになるでしょう。 

 敵意は彼らにその行為を強いるのですが、その行為をどれだけやっても何かが達成される見込みは少なく、延々と同じ地位に彼らを縛り付けることになり、不毛の努力は彼の精神を消耗させ、貧困化させることにつながるように私は思います。 

 

(他への無関心) 

 彼らがある一つのことに全意識、全エネルギーを投入しているとすれば、それだけ他の事柄へ意識やエネルギーが向けられなくなります。彼の内界のことに集中すればするほど、外界への関心は削減しなくてはならなくなるわけであります。 

 こうして彼にとって関心のあることは限られていき、その他のことに関しての無関心が増大していくことになります。これは虚無主義につながることであると私は思います。虚無主義がさらに敵意を高め、敵意がさらに彼を虚無主義に陥らせるといった悪循環が生まれているかもしれません。 

 もちろん、個人差はあります。家族や友人への関心が時々甦ってくる人もあれば、ある特定の出来事の後にだけ自己への没頭が見られるといった人もあるようです。一方で、これの程度が大きい場合、家族や友人に対しても、自分の将来や生活に関しても、一切無関心になってしまうような人もあります。このような人は、当然、無趣味になりますし、人生や生活から一切の感情体験をしなくなっていき、世界も他者もすべて意味が失われてしまうのです。それは貧困化を示しているものであると私は見做しております。 

 

(自己疎外へ) 

 自己の没頭は他への関心や関与を奪ってしまうために、彼らは自己疎外を起こしてしまうのです。もはやそこは彼だけの世界になるのです。唯一関係を持ち得る他者とは親でありますが、その親とも良好な関係を築いたり維持することが妨げられているので、彼の疎外感はどこまでも膨れ上がっていくことになります。 

 彼は孤独であり、人間界からの脱落者であり、家庭での異邦人であり、どこかに辿り着こうとしていながらどこにも辿り着くことのできない放浪者であります。私には彼がそういう人間に思われてくるのであります。 

 

(文責寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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