1月22日(金):コロナ禍を生きる~イベントと感染対策
先日、1月16日に行われた大学共通テストでなんとも迷惑な受験生がいたそうだ。彼は鼻を出してマスクを着用していた。それを見た監督官がマスクをちゃんと鼻までかけるようにと注意すると、男はこれが自分の正しいマスク着用だと言って指示に従わなかった。その後も再三監督官から注意を受けるものの、彼はマスクを正そうとはしなかった。6回目の注意の時、次の注意で従わなかったら不正とみなすと監督官から言われるが、7回目の注意にも彼は従わなかった。彼は失格を言い渡され、次の時間のテストはその他の受験生を全員別室に移動して実施したということらしい。その後、男はトイレに4時間近く籠城し警察沙汰となる。
現在のコロナ禍では、入試であれ、各種のイベント、催事、その他経営に至るまで、感染対策とセットになっているものである。この時、イベントと感染対策との関係には次の二種があると思う。
①イベントを開催しますので、これこれの対策を守ってください、というものと、②これこれの対策を守ってくれるならイベントを開催します、というものである。
両者は似ているけれど、①はイベント開催が前提となっており、②は感染対策が前提になっているという違いがある。従って、違反者がいた場合、①はそれでもイベント開催するだろうけれど、②はイベントの中止となる可能性が高くなる。言い換えれば、そのイベントが①か②のいずれに基づいているかで違反者に対する対応が変わってくるということだ。この点を見逃してはいけないと僕は思う。だから両者は同じように論じることができないのである。
イベントが小規模であればあるほど①に近いだろうし、そのイベントが地方自治体や国が関与するほど②に近くなると僕は思う。また、クラスター発生の危険性の度合いによっても変わるだろうし、アラートレベルによっても変わるだろうと思う。感染の危険性が高い時期ほど②のニュアンスが濃厚になるものと僕は思っている。
今回、飲食店の時短営業が実施されているけれど、あれも②の思考に近い。時短営業を守るならあなたたちのお店を支持しましょうというわけだから、前提が時短営業に置かれていることになると、僕は考えている。
では、大学共通テストは①か②のどちらであるだろうか。
まず、これは国が関与しているイベントである。従って、開催までにいくつも審議が重ねられてきたことだろうと思う。
現役の大学生でもなかなか大学で授業を受けられない状況がある。あくまでも僕の想像だけれど、そういう状況なら受験生には一年浪人してもらって、今年は共通テストは無しにしましょうなんて案も出ていたかもしれない。
それでも実施するとなったのは、これこれの感染対策を徹底しようという条件がついたのだと思う。そこには専門家の意見なんかも聴いただろうし、試験会場の視察なんかも行い、実地検分した上で対策方針が決まったかもしれない。
従って、そのように考えるなら、この共通テストと感染対策の関係は②に近いものになる。そうなると違反者が現れた場合、試験そのものが無効になってしまう可能性が生まれるわけだ。
実際、監督官のあの執拗な注意を見ると上記の可能性が高そうに思う。また、違反受験者を残して他の受験者を全員別室に移動させてテストを続行したというのも、一人の違反者のために全員のテストが無効になることを防ごうとしたように思えてくる。
その違反者を個人攻撃しているのではなく、このテストを有効なものにしようと、成功させようという気持ちの方が主催者側においては強かったのではないかと僕は思う。他の全員を救うために一人の違反者を切り捨てざるを得なかったのではないかと思う。
今、僕は切り捨てると言ったけれど、本当は監督官もギリギリまで彼を救おうとしたのである。一回目の注意の時点で退室してもらってもよかったのであるが、監督官たちはできるだけ彼の行動を正してもらおうと努めてきたのだ。彼がそれに従わなかったのである。監督官や主催者を批判するのは正しくないと僕は考えている。
さて、この違反した受験者は49歳の男性だというからビックリだ。49歳といえば僕と変わらんじゃないか。本当なら子供を大学に行かせるくらいの年齢だ。この男性のことは知らないけれど、彼が人生が上手く行っていないと聞いても僕は驚かない。そりゃそうだろうと思うくらいだ。
マスク着用に関して、彼は自己流の着用の仕方があるなどと言うのだけれど、基本的に、なんの信念も主義主張もないのだ。もし、そういうものが彼にあるなら一回目の注意の時点で自ら退室したことだろうし、その後も籠城するようなことはしないだろう。
次に、彼はこうして一年をフイにしたわけだ。一日か二日、自分の流儀を曲げてでも試験に合格しようとは思わないわけだ。この一日か二日の苦痛なり不便なりを耐えず、一年の浪人を選んだことになるわけだ。これはどういうことであるか。
神経症的な人の中には、大きな苦痛を回避するために小さな苦痛を甘受しようという人がいる。それとは逆に、目先の小さな苦痛を拒否して今後のより大きな苦痛を背負い込んでしまうような人たちもある。その人たちがどいう種類の人たちであるかはいちいち言うまでもないことである。この男性はそういう種類の人である可能性が高いように思う。
最後に意味不明の籠城である。この籠城はどのように考えたらいいだろうか。僕の見解はこうである。彼は堅固な守りを必要としていたと。従って、一つ一つの忠告が彼には大きな打撃となっていただろうと思うのだ。これだけの守りを必要とする人たちとはどういう人たちであるか。
また、注意をされたらその時だけでもマスクを上にかければいいのである。なんでそこまで意固地になるかということである。彼は何かに反抗しているのか。彼は自分と戦っているのか。僕はそうは思わない。彼は監督官の言いなりになることで自分が喪失してしまいそうな脅威を感じているのだと思う。その脅威と戦っているのだと僕は思う。違反していないと自分がなくなるということであれば、それだけ脆弱な自己を持つ人、それだけ希薄な自己を持つ人であることも考えられそうであるが、このように自己が脆弱ないしは希薄である人とはどういう種類の人間であるか。
以上を綜合すると彼がどういう人間であるかおぼろげながら分かってきそうである。その輪郭だけでもつかめそうな気がするのであるが、まあ、この男性個人のことにはこれ以上触れないようにしよう。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)