6月3日(日):身体と医療保険の話
仕事を終えて、夜、喫茶店でこれを書いている。いつもの生活パターンだ。今日は割と忙しく過ごした。毎日こんな感じであればいいのだけど、波があるのが困りものだ。
隣は以前は立体駐車場で、昨年末から今年の二月にかけて、その解体作業の騒音で悩まされたのだけれど、今度新たにビルが建つということを今日知らされた。また騒音に悩まされるのかと思うと億劫である。造っては壊し、壊しては造ってということを街は繰り返すものだけれど、本当に無駄なことをしているなと思う時がある。今度は診療所かなんかのビルが建つようだ。病院はもう要らないんじゃないかね。高槻周辺には本当に病院が多いなという印象があるのだけれど、そう感じているのは僕だけだろうか。
人間というものは生きている以上病気に罹るものだ。身体的にも精神的にも。僕たちはそれで医療保険を支払っている。支払っている以上の額を使用したとすれば、それは他の人たちが負担してくれていることになる。僕はそれがけっこうイヤだと感じる。病気に罹ったり、怪我したりするのは仕方がないとしても、それを「治療」して、医療から離れていくということは社会に対する義務ではないかと僕は考えるのだ。だから、病気になったら、治療を受けて、良くなっていかなければならない、僕たち一人一人にそれが求められているのだって、僕は考えているんだ。
ところが治りたがらない人たちも多い。「治る」ことを拒否するのだ。病気を長引かせたり、あるいはミュンヒハウゼン症候群のように病気ではないのに病気の状態を自ら作り出すというような人は、医療保険を蕩尽しているに等しい。僕にはそういう真似はとてもできそうにない。
僕は腎臓の働きがよろしくないと指摘されている。今のうちから生活を改めないと、20年後には透析生活を送るようになるよと、医者から脅されているのである。透析生活は避けたいけれど、僕の透析生活を支えるようになるのは、僕以外の人たちが支払ってくれている医療保険である。そちらの方が僕には耐え難い。あまり多くの人のお荷物になって生きていくようにはなりたくない。だから食生活を改めている最中だ。
食生活を改めることと、やはり酒は控えた方がいいということも実感している。少しずつ始めている。一度にすべてを改めようと思うとすぐに力尽きるということは目に見えている。だから少しずつ変えていけばいいのだ。今日明日の内に透析生活に入るわけではないのだから。
それから、あとはタバコだな。これも悪い癖になってきたな。眠たい時、考え事をしている時、イライラしている時、空腹の時なんかにタバコが欲しくなる。タバコが役に立っていると思われている間は禁煙も成功しそうにないな。これも少しずつ改善していく必要があるな。
でも、腎臓というものは、肺や肝臓以上に厄介なものだと実感した。透析生活はしなくても、一生薬は飲み続けなければいけないと医者は言う。僕の腎臓のために、僕の一生分の薬が処方されることになるわけだ。莫大な量だろう。僕が三割負担したとしても、相当な金額が保険で賄われることになるのだ。これも世間の皆様からすれば迷惑な話に聞こえるかもしれないな。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)