5月14日(月):偶然の一致
先週末に風邪をひいて、具合の悪い日を何日か過ごした。昨日が特にひどくて、頭はクラクラするわ、咳は出るわ、鼻水はタラタラ垂れ流すわでたいへんだった。そして、寒気にずっと襲われ続けたのだ。
昨夜は、それで、ぐっすり休むことにして、おかげで今日は大分具合が良くなっている。でも、まだ本調子という感じではない。
夕方までは仕事が入っていたけれど、それ以後は空いていたので、今日は早めに帰宅して、温かくして寝ようと考えている。帰宅前にYさんが来た。来て、会うのはいいけれど、僕は風邪を移してしまうのではないかと心配だった。でも、Yさんも風邪をひいていたと言う。これを聴いて、僕は嬉しくなった。
人間関係では不思議なことがしばしば起きるもので、相手と親密さが増すにつれて、偶然の一致というような現象が生じる。僕が風邪をひいた同じ頃に、彼女も風邪をひいたのだ。確かに寒い日が続いた。風邪をひく確率は高かったかもしれない。でも、それで皆が皆風邪をひいたわけではない。偶然にも僕が風邪をひいたのと時を同じくして、彼女も風邪をひいたのである。どちらか一方だけが風邪をひく確率の方がはるかに高かったかもしれないのに。
こういうのをこじつけだと思う人もあるかもしれない。確かにこじつけである。世界で生じることはすべて偶然である。そこに何らかのこじつけなり、関連付けをするから、必然という概念が生まれてくるのではないだろうか。人間はごく自然にそういうことをしているものではないだろうか。意味の存在しなかった所に、意味を見出そうとしてきたのではないだろうか。そうすることで人間は自分たちの世界、内的な世界を豊かにしてきたのではないだろうか。僕はそう考えている。
精神分析はこじつけだと批判されることがある。僕のカウンセリングにおいてもそう言われることがある。それに対して、僕は確かにこじつけです、それが良くないことでしょうかと問い返す。
道端に雑草が生えているとします。その雑草が道端に生えているのは偶然以外の何物でもない。そこに根付いたから、生えているに過ぎない。しかし、人はこの雑草にもそこに生えている意味があると考えたがる。人は意味を探求していくもので、ユングやフランクルなどはこの点を特に強調しているように僕は捉えている。
偶然に生えている雑草が、その雑草に意味があると分かった時、僕たちはその雑草が何か貴重な存在に思えてくる。もちろん、それは僕たちが一方的に押し付けた意味であるかもしれないし、雑草からすれば「勝手にそんなもの決めんといてくれ」と言いたくなるようなものかもしれない。そして、意味を感じとったその雑草に対して、人は自分のいろんなものを投影したり、大切にしたりする。関係が形成されるのである。僕たちはそういう形で内面を育てていくということをしてきているはずなのだ。
偶然の一致として、それで片付けることもできる。でも、ユングはさらに一歩を進めて「意味のある偶然の一致」ということを述べている。偶然の中に、さらに人は意味を見出し、感じ取るものであり、そういうことができるほど、僕たちは内面を豊かにしていけるのだと僕は思う。
僕とYさんが同時期に風邪をひいたのは、僕には偶然の一致以上に意味のある偶然の一致と捉えているのだ。こじつけだとか言われても構わない。それで僕が満たされるのであれば、僕にとって意味があることだ。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)