<T024-16>高槻カウンセリングセンター便り集(16)
(本ページの内容)
・高槻カウンセリングセンター便り~46通目:「治る人・治らない人」(2)(病の二相)
・高槻カウンセリングセンター便り~47通目:「治る人・治らない人」(3)
・高槻カウンセリングセンター便り~48通目:「治る人・治らない人」(4)(感情的正当性の優位)
・終わりに
高槻カウンセリングセンター便り~46通目:「治る人・治らない人」(2)
(病の二相)
人は病気の経験をしますが、そこには常に二つの層の経験があります。人は両方の相の経験をしているのであります。
私はこれを「私の病」の相と「病の私」の相と呼んでいます。医学は前者に取り組み、心理学や哲学は後者に取り組むものであると私は捉えています。
また、後者の相のものを前者の相に属するもので対応するとおかしなことになると私は考えています。
例えば、ある人が重い病気で死ぬほど苦しい思いをしているとしましょう。これは「私の病」に属する体験であります。この人が「私は死ぬのですか」と言ったとしましょう。これは「病の私」の相に属する経験を述べているものであります。なぜなら、「私の病」の相に属する経験をを述べるとすれば、例えば、「この病気は治るのですか」といった無いようになるでしょう。「私は死ぬのですか」は、「病」の体験ではなく、「私」の体験を述べているのであります。
この人の言葉に対して、「この病気で死ぬ確率は低いので治療を続けていれば治ります」と答えたとしてもあまり意味がないのであります。相に違いがあるからであります。むしろ、「死にそうに思うのですね」と言ってあげる方がこの人には助けとなるのです。この語りかけはこの人の「病の私」の相に応じているからであります。
病の経験の二層を想定すると次のことが理解できるようになります。
「病気があるから私は病人である」というのは一相だけの思考であります。
二相を理解できると、「病気がない(治っている)けれど、私は病人である」という体験様式や「病気があるけれど私は病人ではない」という体験様式を理解することが可能となるわけであります。
自分自身を病人として体験しているかどうかということは、病気の有無とは次元が異なるのであります。
あまり個人のことに触れるわけにはいかないのですが、自分を激しく恥じている女性クライアントがいました。自分を恥じるようになったのは、彼女が若いころに肛門科の治療を受けたことによるものであるようでした。それから20数年を経て、彼女はいまでも肛門科患者の自分を生きていたのであります。その病気はとっくに治癒しているのに、「私」の治癒はなおざりにされてきたのでした。
従って、ここで私が言っている「治る」とは、「病気が治る」という意味ではなく(それは医学の領域であります)、「私が治る」ということであります。ここでは病気の有無に関わらず、その人がどのような自分を生きるようになっていくのかということがテーマになるわけであります。
私の考えでは、「私が治る」ということの方が、「病が治る」ことよりも、人間にとってはるかに根源的であるのです。
ちなみに、この二相は主体によって体験されている事柄とそれを体験している主体という区別であります。
時に、「治らない人」の中には両者の区別が分からないという人もおられるのです。前者の方、すなわち体験されている事柄の方はよく見えているのですが、後者の方、すなわち体験している主体の方はあまり見えていないようであります。おそらく、主体の感覚が乏しいためであると私は考えています。
(2022.8.29)
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
高槻カウンセリングセンター便り~47通目:「治る人・治らない人」(3)
前回の46通目は削除されたようです。
この「治る人・治らない人」の一連のシリーズに直接関係する内容ではなかったものの、私にとっては非常に重要なことを述べていました。削除されたのを残念に思います。
前回の内容は「治る」ということに関してであります。一般の人はあまり気にしないことであるかもしれませんが、医師が言う「治る」と心理学者や哲学者の言う「治る」とは意味が異なると私は考えています。その違いについて述べたものでした。
削除するのはグーグルさんの自由なので、私は私の論述を続けることにします。
(自己形成)
どのクライアントも最初は「治らない人」として来談します。
そこから、一部の人は「治る人」へと踏み出し、一部の人はそのまま「治らない人」として、カウンセリングを終結していくのであります。
それを私は次のように定式化しています。
「治らない人」は「治る」前に「治る人」になること、と。
ここには二段階の過程があることになります。「治る人」になって、それから現実の「治る」が来るのであります。身体的な病症はまだしも、心や精神の問題ではその順序が逆になることはないと私は考えています。
その人が「治る人」になれば、その人はどの治療でも「治る」と私は信じております。
この二段階の最初に来るのが「治る人」になることであって、それは一つの自己形成過程であります。つまり、人は「治る」前に自己を新たに形成しなければならないということであります。
「治る人」はこの過程を受け入れるのであります。段階的に進んでいくという観念を受け入れるのであります。
「治らない人」はこの自己形成の過程をすっ飛ばして「治る」ことを期待する、そういう傾向を示すことが多いように私は感じています。
この一つの典型例として、「方法だけを求める」があると私は考えています。自分はそのままで、方法だけを外部に求めるというような人であります。
自己形成過程を省くとは、要するに以下のような要望を出しているということであります。
「自分はそのままで、悪いものを取り去り、良いものだけを与えてほしい」という要望であります。非常に虫のいい要望のように聞こえるかもしれません。
しかし、これを単に虫がいいと評価して済ませるわけにもいかないのであります。このような種類の要望はそれ自体一つの症状を示していることもあり得るからであります。
この要望は幼児期の在り方を望んでいるということになるのであります。「自分は動かず(そのままで)、食事を口元まで運んでもらって(良いものを与えてくれて)、おしめは取り換えてほしい(悪いものだけ取り去って)」という幼児の在り方に対応しているわけであります。
従って、そのような要望は心的退行の産物であるとも考えられるわけであります。それも人生再早期の段階へと退行している心理の現れとして考えられるのであります。
話が逸れましたが、「治らない人」は自己形成という観念に乏しいという印象を私は受けています。
(2022.9.9)
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
高槻カウンセリングセンタ便り~48通目:「治る人・治らない人」(4)
(感情的正当性の優位)
私の経験では、「治らない人」にはまずこれが見られるのです。
感情的正当性とは、私が勝手にそう命名しているのでありますが、その判断の根拠がもっぱらその人の主観的感情に基づいているということであり、その傾向が非常に優位であるということを意味しています。
感情的正当性とは、端的に言うと、快感情をもたらすものは正しい、快感情をもたらす人は良い人である、とそのような判断をするということであります。同様に、不快感情をもたらすものは間違っており、不快感情をもたらす人は悪い人と判断するということであります。
快感情とは、例えば、落ち着くとか安心する、楽しいとか愉快である、幸福感や満足感などであります。不快感情とは、例えば、不安、苦しい、痛い、辛い、その他、不幸感や不満足感等々であります。
ところで、感情的正当性が優位であることは、それ自体は問題ではないのであります。幼い子供、乳幼児や児童においては普通に見られることなのであります。
感情というものは非常にリアルに体験されるものであり、他に判断の手段になるものがない場合、どうしてもその感情に基づいて判断してしまうものだと思います。
例えば、人をイジメるのは楽しいから正しいことである、何も悪いことはしていないなどと判断する子供もいるのであります。ここでは判断の根拠が自分の感情体験だけなのであります。
もう少し成長すると、例えばイジメは良くないことだ(倫理感)からしないとか、それをすると叱られる(処罰の恐怖)からしないとか、それをしたら楽しいかもしれないけれど今はそれをする時ではないからしない(義務感や社会性)とか、これをすると来学期の評価に影響するかもしれない(時間展望)からしないとか、イジメられる人がかわいそうだ(共感性)からしないなど、主観的な感情体験以外の要素が判断に入ってくるのであります。
従って、感情的正当性が優位であるとは、その他の要素が欠けている、もしくはその他の要素が活用できないというところに問題があるということになるのであります。
感情的正当性が優位である場合、もっとも典型的な表れは、「しんどくなったから止める」というものであります。後に取り上げたいと思うのですが、どのような病気や問題であれ、その克服にはしんどくなる時期が必ず訪れるのであります。そこで、「治らない人」は自分の主観的感情体験だけを根拠にして、「治療」を中断したりするのであります。
また、上記と根本的には同じことなのですが、「ラクになったから止める」というものもあります。これもよく見られるパターンであるように思います。
クライアントは最初の数回でかなり「ラク」になることがあります。しかし、それは支えられているといった安心感などに基づいていることが多く、「治った」とか克服したとかいうわけではないのであります。本当はそこから始まる(つまり、いずれ述べる予定ですが、クライアントがいい状態でなければ進展しないのであります)のでありますが、「治らない人」はそのスタート地点をゴール地点と判断してしまうのであります。
さて、感情的正当性の優位に関しては少々詳しく述べたいとも思ってますので、次回もこのテーマで続けることにします。
(2022.9.9)
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
<終わりに>
高槻カウンセリングセンター便り集の第16弾です。今回は46通目から48通目を掲載しています。いずれも「治る人・治らない人」のシリーズに属する内容であります。
46通目は削除されたコンテンツでした。もっとも重要な内容であり、ここを押さえておかないと後々誤解が生じるかもしれないというものでした。それほど重要なページを削除するグーグルさんの良識を僕は疑う。
心の問題とか病が「治る」と言う時、一体、何が治るということを指しているのでしょうか。大抵の人は「治るとはどういうことか」と問われると「症状や病気が消失することだ」とお答えになられるだろうと思うのです。しかし、これは本当は何も答えていないのであります。どうして症状の消失が治るということにつながるのか、どうして両者が同一視されるのか、そこは問われていないからであります。実は私もこの問いに答えることはできないのです。人がなぜ「治る」のかは私には分からないのです。しかしながら、逆説的でありますが、なぜ「治らない」のかに関する疑問の方が考えやすいのであり、「治らない」を通して「治る」に迫るしかないと私は考えています。
それはさておき、46通目では病の二相という概念を述べました。人はこの二層を体験するものでありますが、一方は意識できても、他方はあまり意識されることがないかもしれません。
47通目で述べたかったことは、病の二相を理解すると、人はさまざまな在り方が可能になることが理解できるのであります。病気があっても病人ではないという在り方、生き方さえ可能であり、「病気」があっても「治っている」という状態もあり得るものであると私は考えています。「治る」とはそういうものであると私は認識しています。
48通目では、「感情的正当性の優位」について述べました。これは「治らない人」に典型的に見られる傾向であると私は考えています。
(2023年7月)
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)