<T024-15>高槻カウンセリングセンター便り集(15)
(本ページの内容)
・高槻カウンセリングセンター便り~43通目:親に似ることを嘆く
・高槻カウンセリングセンター便り~44通目:ファースト感情
・高槻カウンセリングセンター便り~45通目:「治る人・治らない人」(1)
・終わりに
<高槻カウンセリングセンター便り~43通目:親に似ることを嘆く>
今朝のワイドショーである事件が報道された。
10代の女子中学生が、路上で、見ず知らずの母娘に襲い掛かったのだ。この子の供述によると、自分が母親に似てきたのが嫌で、母親と弟を殺そうと思い、その予行演習として事件を起こしてしまったそうである。
なぜ予行演習が必要なのだろうか。僕はこの子は母殺しを本当は回避したいのではないかと思っている。現にこの子が襲ったのは、母ではなく、娘の方であった。この子は母を刺せないだろうと思う。
この子は自分が母親に似てきたということを嘆いている。ここには母親との同一視が働いている。もう少し言えば、自分の悪い何かを母に見てしまい、その母との類似性を嘆いているのだから投影同一視ということになるだろうか。
この場合、対象である母親はこの子自身でもある。心的な意味で、この子の一部を母親が担っていることになっている。母を亡き者にすることは自己の一部を失うような体験となるかもしれない。だから、どこかでそれを回避したい心的機制が働くのではないかと思う。そして、もし本当に母親を殺したら、この子は精神病になるかもしれない。
しかし、まあ、この事件のことは置いておこう。分からないことが多すぎるからだ。
この子の訴えているようなこと、つまり、自分が親に似てきて、そういう自分が嫌でたまらないといった体験は、思春期頃の青年にはありがちなことだと僕は思っている。人はそれを引き受けていく(受け入れるのではない)のだと思う。
一言補足しておくと、僕はそれは正確ではないと考えている。親に似てきたことが耐えられないのではなく、自分の中に耐えがたい悪い何かを先に見てしまうのである。その後で親に意味付与してしまうものであると考えている。悪いものが自分にありながら、それは親に属しているものであると捉え直すことで、自分に救いをもたらそうとする営みなのだと思う。
それを引き受ける一つの方向性として、親とは違った生き方を目指すということがあるだろう。あるいは親よりも立派になろうと努力したりするかもしれない。それはそれでいい面もあると思う。ただ、いつか壁にぶつかる日が来るだろうと思う。動機づけの根底に、その人自身ではなく、親が措定されているからである。その時に、この人は生き直しを迫られるだろうと思う。
なかには事件を起こしてしまう人もあるだろう。これはそれを引き受けることの失敗なのである。もっとも、一つの事件は種々の要因が複雑に錯綜しているものなので、こんなふうに単純に言い切ることもできないのであるけれど。
また、血統妄想なんかもこういうのを基礎にして発展するものかもしれない。
血統妄想とは、自分の血筋を否定して、自分はもっと高貴な人たちの子供なのだと信じ込んでしまうなどというものである。
自分が親に似てきたことに耐えられない、そこで親を殺す代わりに、親を否認するわけである。そして、本当の親が他にいるはずであると信じることで、その耐えがたい事実を処理しているということである。
それはさておき、10代、20代の若い人が事件を起こしてしまう。これからの人生がある人たちなのに前科を持ってしまう。見ていて胸が痛む思いがする。
(2022.8.22)
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
<高槻カウンセリングセンター便り~44通目:ファースト感情>
43通目が削除されたらしい。僕はメールでそれを知る。最初の時は憤慨もしたけれど、今や無感情にそれを受け入れる。グーグルさんのやることなので僕には関係ないからである。
今日は感情体験について話そう。
カウンセラーとか心理学者なんかは自分の感情とか気持ちに気づきましょうみたいなことを平気で言う。
そんなこと僕にはとてもできない。というのは、人が自分の感情に気づくというのは並大抵のことではないことを知っているからである。そもそも、一体、どの感情に気づくべきなのだろうか。
僕のクライアントで自分の感情に気づいている人はゼロである。おそらく一般の人もそうであろうと思う。人が気づいていると信じているのは、後に生起している感情体験である。
どういうことかと言うと、僕たちは日々さまざまな出来事を体験する。
体験して最初に生じる感情体験がある。そこから他の感情が混入して、最初の感情体験は加工されてしまう。さらに連想とかが働いて、新たな要素がそこに加わってしまう。過去の記憶がよみがえってきて、さらにその感情を上書きしてしまうなんてことも起きる。そうして、一番最後(本当は一番最後の感情というものはあり得ないのだけど)にたどり着いた感情を自分の体験した感情であると認識しているだけではないだろうか。
人間の精神は常に活動していて静止することがない。一つの感情状態のまま留まるということは本来はあり得ないのである。それがあるとしても、単にそのように見えるだけか、そこに留まる「工夫」を本人も知らず知らずのうちにしてしまっているかではないだろうか。
詳細は省略するのだけれど、要するに、人の感情体験というものは常に変遷していくものである。人が自分の感情に気づいているという時、その感情とは一番最後に経験された感情であったり、あるいは一番印象に残っている感情であったりしているということである。
そういう感情に自分で気づいているというだけのことであるが、そういう感情に気づいてもなんら得るところがないと僕は考えている。
本当に気づく必要があるのは一番最初に体験された感情である。後々発展したり加工が施されたりしていくので、ここはまず見えなくなっていることが多いように思う。
ところが、この一番最初のファースト感情は、案外あっけないものである。指摘されると納得される人も多いのである。そこに感情体験があるということが見えてないというような人もあるが、一瞬の出来事でもあるので見逃されることも多いように思う。
何よりも重要なことは、ファースト感情はプラスでもマイナスでもないということである。それは無害であり、中立である。加工されていって、それがプラスになったりマイナスになったりしてしまうのである。
また、相手に伝える場合、最後の感情を伝えるとトラブルが生じるかもしれないが、ファースト感情ではそういうことは起きないだろうと僕は信じている。
さらに、自分の感情を恐れているという人は、最初の感情ではなく、後の加工され変容していった感情の方を恐れている場合もある。
人が自分の感情や気持ちに気づくということはとてつもなく難しいことなのである。僕は自分の感情に十分気づいているとは思っていない。自分の感情に気づきましょうなどと、僕は軽々しく言えないのである。
(2022.8.25)
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
<高槻カウンセリングセンター便り~45通目:「治る人・治らない人」(1)>
カウンセリングを継続して、改善の見られる人とそうでない人とがいます。どうしてこういう違いが人によって生じるのかということが私には疑問でありました。この数年来、私はこのテーマに取り組んでいて、まだ途上の段階にあるけれど、私なりに見えてきているものを綴ろうと思います。
まず、言葉のことを押さえておきましょう。
ここでは「治る・治らない」という言葉を使用します。それに対応して「病気」とか「病」といった言葉を使用することになります。
これは他の言葉、例えば「課題と克服」「問題と解決」などと言い換えていただいても差し支えありません。記述が煩雑になることを防ぐために言葉を一つに統一しておきたいと思うのです。
従って、これらの言葉はあくまでも表記上のものであります。
また、「治る人」「治らない人」と二分していますが、これも便宜上のものであります。
現実には両者の間に幅広い中間領域があり、大部分の人はこの中間領域に属するものであります。
ただ、この幅広い領域を対象にすると、非常に抽象的で煩雑な記述をしていかなければならなくなると思います。記述を簡明化するために、便宜上、二分することにします。
改善が見られない、あるいはあまり見られない人を「治らない人」と分類し、改善がある程度以上見られたという人を「治る人」と分類しておくことにします。
「治る人」と「治らない人」とでは、カウンセリング場面で、やっていることが全然違うのであります。この相違を述べていく予定でいます。
ところで、両者は概念化できないものであり、且つ、私もそれをしないことにします。概念化できないとは、「治る人」とはこれこれこういう人であり、「治らない人」とはこれこれこういう人である、などと言えないということであります。
行動傾向で概念化することも可能でありますが、その場合、多くのことが見失われることになると私は考えています。二人の人が同じような行動をしたとしても、その行動に至る経緯、背景、事情、動機、過去経験などは全然異なっているかもしれないからです。
従って、最初から概念化するつもりは私にはありません。
前述のように両者はやっていることが全然違うのであります。
クライアントは他のクライアントがカウンセリングでどういうことをしているのかを知る機会がほとんどないものであります。他の人から学ぶということができないのはクライアントにとって損失であると私は考えているのでありますが、その損失を少しでも補填したいと願ってこれを書くことにします。
クライアントはカウンセリングを受けると料金を支払います。それは私の利益になるのでありますが、クライアントにも有益なものを得てほしいと願っております。
「治らない人」とは、いわば、カウンセリングで利益を得ることのできない人でもあります。そういう人を少なくしたいと私は願うのであり、そのために啓蒙することも必要なことであると私は考えています。この私の考えそのものは、自分ではおかしいとは思っていないのでありますが、いかがなものでしょうか。
(2022.8.29)
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
<終わりに>
今回は高槻カウンセリングセンター便りの43通目から45通目までの3通を再録しています。
43通目は、たまたま目にしたワイドショーの事件報道を取り上げたのが拙かったのかも。見事に削除されてしまいました。事件は一つの入り口に過ぎなかったのですが、要するに、自分に親と類似の部分を見てしまうことによる嫌悪感を取り上げたかったのでした。端的に言えば、心的に親離れできていれば、親と似ている部分を見ても動揺することはないと私は考えています。似ているといっても、それが自己に属しているものであり、親に属しているものではないという、親との区別がつくようになるからであります。私はそのように考えています。
44通目はファースト感情体験と私が名付けている概念を述べるつもりでいました。内容としては抽象的なものになり、読んでくれた人にとってもなんのことやら訳が分からない内容になったかと思います。ある出来事を体験して、一番最初に体験する感情のことなのでありますが、それはほんの一瞬の出来事であります。この最初の感情体験は、自他を苦しめることはないと私は考えています。その後、この感情にさまざまな加工がなされて発展していき、悪感情に発展したり、落ち込んだりするものであると私は考えています。そして、自分の感情に気づくとは、最初の感情に気づくということであり、それは相当困難なことなのだということでありました。
45通目から「治る人・治らない人」のシリーズが始まります。以後、この便りはこのテーマを軸にして進展することになります。45通目ではその前置きのような内容となっています。今後の内容を読む際に頭の片隅にでも置いておいてほしいことを綴っています。
(2023年7月)
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)