1月14日(木):夫婦同席面接はやりません
今日の昼ごろ、普段はそうでもないのに立て続けに電話があった。手が離せない時に限って電話が鳴るのも困ったものだ。ほんと、どこかで見られているんじゃないかと、そんな妄想観念が浮かんできそうである。
かかってきた電話のうち一部は業者等の関係だ。コロナ禍の宣言下で一部の営業時間が変更しますとか、そういった類のものだ。いちいち連絡いれんでもええわ。もともと僕は活用していないサービスに関するものだから。
その他は予約や問い合わせである。そのうちの一件に次のものがあった。夫婦のカウンセリングをやっているかというものだ。どうしてここを間違えるのかな。確かに紛らわしいところがあるのは認めるけれど、そんなに難しいことでもないだろうに。
つまり、夫婦の問題は扱うけれど、夫婦の面接は行わないということだ。これは一般の人には理解しづらいことなんだろうか。
僕は夫婦というのも一つの人間関係として捉えているので、特に他の人間関係と分け隔てているつもりはない。夫婦といっても、そこには二人の人間がいるだけである。その双方がお互いのことで悩んでいるだけのことなのだ。当然、夫婦の問題というものは、夫と妻とでその理解は異なることもあるし、問題そのものが両者の間では異なっているものである。夫婦の問題を考える際に、僕はそこを区別したいのだ。夫が問題としているところと妻が問題としているところの区別、ないしは夫が取り組むべき部分と妻が取り組むべき部分の区別だ。この区別をつけるためにも別々にお会いしたいと思うわけだ。
もう一つ重要なことは、夫とか妻とかいった役割から離れたところで個人を見てみたいのだ。妻がそこにいると、夫はどうしても夫役割を取ってしまう。妻の場合も同様である。本来のその人の姿を見てみたいと僕は願うのだ。
さらに夫と妻と個別に面接することの利点は、それが心理テストの代わりにもなり得るということだ。自我が機能していない方、より病理を抱えている方ほどカウンセリングに抵抗を示すはずである。これはなぜかということも、僕の中では確証がある。従って、夫が来談して妻が来談を渋っているということであれば、妻の方が夫よりも重篤な問題を抱えている可能性が高いということが予測できるわけだ。
また、さらに夫がどういう語りをするか、妻がどういう語りをするかも見ることができる。夫婦の語りではないことがポイントだ。心の問題というものは、語ることの内容よりも、むしろその語り方に顕現することも多い。
さて、これはかなりの偏見に見えてしまうかもしれないけれど、僕の中では一つの確信となっていることがある。夫婦カウンセリングを求めている人たちでも、僕が個別でお会いしますと伝えるとそれに従ってくれる人たちもある。一方で、夫婦一緒でなければいやだと言って断る人たちもある。この断る人たちのことだ。この人たちは自分ではなく相手に問題があると見なしていることが多いと思う。それが自分の問題でもあるというふうには認識していないわけである。
さらには、カウンセラーを自分の味方にするために夫婦合同の面接を求めるような人もあるし、カウンセラーの前で相手が何を言うかを監視するために求める場合もある。相手が話を省いたらそこを指摘して、相手のことを半強制的に暴露させようという行為が見られることもあるのだけれど、それは却って問題を悪化させることになりかねないものである。
ある程度健全な夫婦は夫婦それぞれの個別面接を受け入れることもできるし、中にはそれを理に適っていると思う人たちもある。自分も相手の前では言えないことがあるし、相手も自分の前では言えないことがあるだろうということを認めることのできる人たちもある。これの何が健全かと言うと信頼感の程度である。自分の居ないところで相手が何を言うか不安だというような人は相手に対する信頼感がかなり低いわけだ。そして、この信頼感の低さは、相手の問題というよりも、その人の問題であることが多いと僕は思っている。ちなみに、信頼感を持つことのできる人たちは普通にカウンセラーを信頼するものである。
あと、よく「自分を客観視する」なんて言い方をするけれど、それはどういうことかと言えば、「自分の外に出る」ということだと僕は捉えている。問題(でもなんでもいいけど)を理解しようと思えば、その渦中にいてはいけないことになる。夫婦の場合も同じで、夫婦のことを理解しようと欲すれば、当事者たちは夫婦の外に出る必要があると僕は思うわけだ。従って、夫婦が同席するよりも、個別の方がお互いに自分たち夫婦がどういう夫婦であるかがよく見えるようになるものだ。実際、僕の中ではその実感がある。
まだまだ述べ足りないけれど、これくらいにしておこう。肝心な点は、僕は夫婦面接はやってませんよということだ。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)