<トピック024>高槻カウンセリングセンター便り集
2022年6月からおよそ一年に渡ってグーグルさんのマイビジネスページに掲載した高槻カウンセリングセンター便りを再録します。
マイビジネスページの投稿欄は分量の制限がありまして、一通一通の分量は短いものでした。そのまま再録すると短いページが数多くできることになり、閲覧する人にとっては煩雑になるかと思いました。そのため、本HPでは3通で1ページとしています。
以下のINDEXには、各ページのタイトルとそれぞれの便りのタイトルも掲載してあります。下線を引いたページタイトルよりお入りください。
・はじめに
・高槻カウンセリングセンター便り~1通目:「治らない人」と「失敗する人」
・高槻カウンセリングセンター便り~2通目:「忌まわしい過去」
・高槻カウンセリングセンター便り~3通目:「治療で悪化する人」
・終わりに
・高槻カウンセリングセンター便り~4通目:「欠損を見る人」
・高槻カウンセリングセンター便り~5通目:「チャンスを逃す人」
・高槻カウンセリングセンター便り~6通目:「運と自己との関係」
・終わりに
・高槻カウンセリングセンター便り~7通目:「正しく比較すること」
・高槻カウンセリングセンター便り~8通目:「比較したがる人たち」
・高槻カウンセリングセンター便り~9通目:「不愉快なパートナー」
・終わりに
・高槻カウンセリングセンター便り~10通目:「天才と狂人の紙一重」
・高槻カウンセリングセンター便り~11通目:「反抗期を嘆く人」
・高槻カウンセリングセンター便り~12通目:「引きこもり者の回り道」
・終わりに
・高槻カウンセリングセンター便り~13通目:「利き手の話」
・高槻カウンセリングセンター便り~14通目:「創造性の人」
・高槻カウンセリングセンター便り~15通目:「名医を探す人」
・終わりに
・高槻カウンセリングセンター便り~16通目:「予防論」
・高槻カウンセリングセンター便り~17通目:「数ある人格の話」
・高槻カウンセリングセンター便り~18通目:「中核テーマ」
・終わりに
・高槻カウンセリングセンター便り~19通目:「鬱より躁」
・高槻カウンセリングセンター便り~20通目:「なぜこれを書くか」
・高槻カウンセリングセンター便り~21通目:「保険は使えますか」
・終わりに
・高槻カウンセリングセンター便り~22通目:医師との同一視
・高槻カウンセリングセンター便り~23通目:範疇化の話
・高槻カウンセリングセンター便り~24通目:流す面接と決める面接
・終わりに
・高槻カウンセリングセンター便り~25通目:自分を律する
・高槻カウンセリングセンター便り~26通目:述語優位の思考
・高槻カウンセリングセンター便り~27通目:自殺のサイン
・終わりに
・高槻カウンセリングセンター便り~28通目:AC(アダルトチルドレン)信者
・高槻カウンセリングセンター便り~29通目:ACについて
・高槻カウンセリングセンター便り~30通目:ACについて(続)
・終わりに
・高槻カウンセリングセンター便り~31通目:ご自由に
・高槻カウンセリングセンター便り~32通目:心理学ショック
・高槻カウンセリングセンター便り~33通目:心理学ショック(続)
・終わりに
・高槻カウンセリングセンター便り~34通目:それ、青い鳥?
・高槻カウンセリングセンター便り~35通目:カウンセリングへの誤謬
・高槻カウンセリングセンター便り~36通目:改善のチャンス
・終わりに
・高槻カウンセリングセンター便り~37通目:専門語
・高槻カウンセリングセンター便り~38通目:病名で呼ぶ人たち
・高槻カウンセリングセンター便り~39通目:人への寛大さ
・終わりに
・高槻カウンセリングセンター便り~40通目:方法だけを求める人
・高槻カウンセリングセンター便り~41通目:私の唯一性
・高槻カウンセリングセンター便り~42通目:寡症状性の人たち
・終わりに
・高槻カウンセリングセンター便り~43通目:親に似ることを嘆く
・高槻カウンセリングセンター便り~44通目:ファースト感情
・高槻カウンセリングセンター便り~45通目:「治る人・治らない人」(1)
・終わりに
・高槻カウンセリングセンター便り~46通目:「治る人・治らない人」(2)(病の二相)
・高槻カウンセリングセンター便り~47通目:「治る人・治らない人」(3)
・高槻カウンセリングセンター便り~48通目:「治る人・治らない人」(4)(感情的正当性の優位)
・終わりに
・高槻カウンセリングセンター便り~49通目:「治る人・治らない人」(5)(感情的正当性の優位~続き)
・高槻カウンセリングセンター便り~50通目:「治る人・治らない人」(6)(「治るとラクになる」という迷信)
・高槻カウンセリングセンター便り~51通目:「治る人・治らない人」(7)(「治るとラクになる」幻想)
・終わりに
・高槻カウンセリングセンター便り~52通目:「治る人・治らない人」(8)(「治る瞬間」が来る)
・高槻カウンセリングセンター便り~53通目:「治る人・治らない人」(9)(「治る瞬間」を信じる人たち)
・高槻カウンセリングセンター便り~54通目:「治る人・治らない人」(10)(治癒の発見)
・終わりに
・高槻カウンセリングセンター便り~55通目:「治る人・治らない人」(11)(治癒の発見~続き)
・高槻カウンセリングセンター便り~56通目:「治る人・治らない人」(12)(仮定法)
・高槻カウンセリングセンター便り~57通目:「治る人・治らない人」(13)(スタートとゴール)
・終わりに
・高槻カウンセリングセンター便り:58通目~悪化する人たち(1)
・高槻カウンセリングセンター便り:59通目~悪化する人たち(2)(失敗に方向づけられている人たち)
・高槻カウンセリングセンター便り:60通目~悪化する人たち(3)(失敗に方向づけられている人たち)
・終わりに
・高槻カウンセリングセンター便り:61通目~悪化する人たち(4)
・高槻カウンセリングセンター便り:62通目~2023年の再開
・高槻カウンセリングセンター便り:63通目~所有は悪徳ならず
・終わりに
・高槻カウンセリングセンター便り:64通目~教団に寄付せず天国へ行く方法
・高槻カウンセリングセンター便り:65通目~悪化する人たち(5)(権威に対する態度)
・高槻カウンセリングセンター便り:66通目~悪化する人たち(6)(権威に対する態度~嫌悪、嫉妬、服従)
・終わりに
・高槻カウンセリングセンター便り:67通目~悪化する人たち(7)
・高槻カウンセリングセンター便り:68通目~悪化する人たち(8)
・高槻カウンセリングセンター便り:69通目~悪化する人たち(9)
・終わりに
・高槻カウンセリングセンター便り:70通目~悪化する人たち(10)
・高槻カウンセリングセンター便り:71通目~悪化する人たち(11)
・高槻カウンセリングセンター便り:72通目~悪化する人たち(12)
・終わりに
・高槻カウンセリングセンター便り:73通目~悪化する人たち(13)
・高槻カウンセリングセンター便り:74通目~毒を薬に
・高槻カウンセリングセンター便り:75通目~不純な動機
・終わりに
・高槻カウンセリングセンター便り~76通目:能力・業績と地位
・高槻カウンセリングセンター便り~77通目:「治る人・治らない人」~創造性(1)
・高槻カウンセリングセンター便り~78通目:「治る人・治らない人」~創造性(2)
・終わりに
・高槻カウンセリングセンター便り:79通目~「治る人・治らない人」~創造性(3)
・高槻カウンセリングセンター便り:80通目~「治る人・治らない人」~創造性(4)
・高槻カウンセリングセンター便り:81通目~課題解決と創造性(1)
・終わりに
・高槻カウンセリングセンター便り~82通目:課題解決と創造性(2)
・高槻カウンセリングセンター便り~83通目:現代人の病
・高槻カウンセリングセンター便り~84通目:過去志向と未来志向
・終わりに
<「終わりに」集>
マイビジネスページに投稿欄があり、そこを遊ばしておくのも勿体ないと思い、特にこれといった目的も方向性も打ち出さずに始めた連載でした。こういう目的でやっていこうとか、こういうイメージでいこうとか、最初から何も決めずに、とにかく始めて、やっていくうちに形ができていくだろうという感じで始めることが私にはよくあるのですが、こういうのは女性的(あまりこういう表現は好ましくないかもしれないけれど)なやり方であると思います。結果的に、こういうやり方が私には性に合っているようであります。
4通目の「欠損」という概念について、こうして読み返すと言葉足らずだったことに気づきます。これは「不足」概念とは決定的に異なるものであります。自分にそれが足りないという感覚ではなく、それが欠落しているという感覚であります。従って、この人(あるクライアントを思い浮かべて書いたものなのですが)は自分自身を「欠陥」のある存在として体験されていたわけであります。その辺りのことから述べないと、どうしてこれが「強迫」に結びつくのかが不明瞭であるように思い、反省する次第であります。
5通目と6通目は運とかチャンスとかいう観念に関わる内容です。私は個人的には運とかチャンスとかいうものがよくわかっておりません。いつか研究してみたいとも思っていましたが、今ではさほど興味も湧かないテーマとなっております。その人の運とかチャンスというものは、その人の無意識の領域にあるものであると当時は(今でもそうなのだけれど)考えていたものでした。
7通目と8通目は「比較」ということを取り上げました。劣等意識に苛まれる人はとかく「自分と他人を比較してしまう」のでありますが、そもそもそれは比較と言える代物ではないということを示したかったのでした。比較は正しくされなければならないものであり、一般の人が考えている以上に難しいことなのであると私は考えています。
8通目は、他人と比較して劣等意識に襲われるのではなく、先に劣等意識に襲われるのであり、後付けで比較のようなことがなされるのであるということを述べたかったのでした。こういうのはもはや「比較」などとは言えない行為である、ということであります。
9通目は夫婦に関する内容です。夫婦に限らず、不愉快な感情を抱えることができず、その不愉快な感情に自己が占領されてしまうような人とお会いすることも少なくありません。感情と自己との同一化が生じるのであり、それは感情を抱える自己が成立していないことを思わせるのであります。
10通目は天才と狂人の比喩に基づいて、両者は何が違うのかという点を取り上げました。とはいうものの、分量の関係もあって、最後の方はかなり飛躍しまくっていて、尻すぼみな内容になってしまったように思う。
11通目は発達心理学に関係する内容であります。発達心理学、並びに児童心理学とか青年心理学とか、それらの学問領域で用いられる専門語はすべて大人が命名したものであります。そのため、児童や青年の心理を的確に表しているかどうか疑問でもあるように私は思うのです。反抗期という言葉一つ取っても、児童や青年の心理を的確に表現しているかどうかが疑問に思われてくるのであります。しかし、専門語はまだいいとしても、そういう言葉から一般の人が形成するイメージの方に問題を覚えることが私にはありまして、本項を書いた動機もそれによるものでした。
ちなみに、その他の領域では、臨床心理学とか精神医学などにも同じ事情が見られると私は考えています。病名とか臨床像とか、それらはいわば「正常」な人間が作ったものであり、それらを現実体験している人たち(つまり病者)の体験しているものを的確に表しているのかどうかは疑問であります。
12通目は「ひきこもり」の子を持つ母親への提言であります。「ひきこもり」の子に変容が見られるようになると、子の方が何かと動き始めるのですが、そこにはさまざまな回り道があると思っておいてほしいと願って書きました。
こういうケースでは、母親たちがカウンセリングを受けに来るのですが、子供の言動が分からないとお感じなられるのであります。子供を理解しようとして私のようなカウンセラーを訪れるのでありますが、他のカウンセラーならいざ知らず、私はある程度のところまでしかそのお手伝いをしないのであります。子供の言動の理解できないところは、そのまま「分からない」にしておける母親である方がいいと私は思うのです。つまり、子供のすべてを理解できてしまう母親は、子供にとっては「しんどい」母親であるかもしれないのです。どうしても分からないところは、分からないまま流せるくらいの方がいいと私は思うのですが、そうして母親が強くなるわけであります。我が子のことで分からないところがあってもビクともしない母親がこうして生まれるのであります。
13通目は利き手の話です。私は左利きです。そのためか同じ左利きの人を見るとつぶさに観察してしまうのです。結局、左利きというものは存在せず、右利きの人と両手利きの人とがいるだけなのだという思いを強めるのです。面白いと私が思うのは、右利きはみな同じなのですが、両手利きは人によって違いがあるということです。何を右手でやり、何を左手でするか、そこに個人差があるのです。そういうのを見ていると面白いとも思うのです。
14通目は創造性についてです。「治る人」は創造的に「治る」と私は信じています。治癒は、もたらされるのではなく、創造されるものであるとも考えています。それだけに創造性は私にとってはとても大きなテーマとなっています。このテーマに関して、序論のような内容を述べてみました。
15通目は「治癒率」と「治療成功率」に関してです。一般の人はまずこの両者を区別していないように私は思うのです。「治療成功率100%」とは、患者さんの100%が治ったということを意味していないのであります。本文で述べたように、「手術は成功しました、でも患者は助かりませんでした」というケースも治療成功例とみなすことができるのであります。これは、治癒率は患者に属しており、治療成功率は治療者に属しているものとして捉えると理解しやすいかと思います。
16通目は、「治療」ではなく、「予防」に関する内容であります。心の病は反復されるという傾向があるので予防的観点が求められることになるわけです。
17通目は人格に関する内容です。ここでは6つほど思いつくままに挙げたのでありますが、そのそれぞれに問題が発生することがあるということを伝えたくて綴りました。
18通目は中核テーマに関する内容です。クライアントの抱える問題に含まれるより中核的なテーマ(葛藤)が把握できると、その人の話のうち、何を聞くべきであり、何を聞かなくてもいいかということも見えてくるのであります。クライアントの話された膨大な内容のうち、何が重要で記憶しておくべきものであるか、何が周辺的な事柄で覚えていなくてもいいことであるのか、そういうことも見えてくるのであります。
時に、クライアントは自分ではこれは問題とは関係ない話だと称して話される事柄が、その人の中核テーマに関わっているということもあるのです。何気ないお喋りであったり、社交辞令のようなやりとりの場面でその人の中核テーマが垣間見えることもあり、こう言ってよければ、そこがカウンセリングの面白いところでもあります。
19通目は「躁鬱」に関する事柄です。本当は鬱から躁に転じただけなのに、治ったなどと早合点してしまう人がおられるので、敢えてここで注意喚起しておこうと思いました。
16通目の予防論のところで触れましたが、心の病は反復するという傾向があります。治るというのは、ある意味では、この反復がなくなるということでもあります。従って、鬱的な状態から気分が高揚することは快復の目安にはならないのであります。鬱状態が反復されるかどうか経過観察して初めて治癒とか快復とかいうことが言えるわけであります。鬱から躁に転じたということは、次の鬱が待ち構えているということを意味しているだけなのであります。
20通目はこの「便り」に関する内容であります。2022年6月1日に1通目を書き、この20通目で一か月が経ったことになります。それを記念してというのも変な言い方なのですが、なぜこれを書くのかということを改めて記しておいたのでした。といっても、何らの方向性もビジョンもなく始めたものなので、1か月を経てそろそろ内容とか方向性が見え始めたということなのかもしれない。
21通目は「保険は使えますか」というウンザリする問い合わせに応じて書いたものであります。そんなものHPを見れば分かる話なのであります。バカなオヤジの例も本文中に記しておきましたが、案外、一般の人は無知なのだな、と改めて思う次第であります。
22通目と23通目とは、それぞれ「範疇化」という概念を取り上げています。私自身が読み返してもあまり内容的にまとまっていないという印象が拭えないのであります。例えば、周囲から見るとそれは暴力というカテゴリーに入るものなのだけれど、暴力を受けている当人はそれを暴力として体験していないとすれば、それは範疇化(カテゴライズ)に違いがあるということを意味しているわけであります。そういう内容のことを書こうと試みたものでした。
24通目は面接に関するものです。後に展開することになる「治る人・治らない人」のテーマを先取りしたものになりました。
25通目は自分を律する場面で病理が噴き出すということなのですが、自分を律するというのは心的エネルギーをかなり消耗するのであります。あまり意識することはないかもしれませんが、丁寧に観察すると、けっこうたいへんな作業なのだということに思い至るのであります。
26通目は、当時はアベ元首相の射殺事件でマスコミが騒いでいた時期でした。あの事件についてどう思いますかとか、あの犯人はどういう人なのでしょうかとか、そんな問いをされるのだから僕としても困ったものである。「そんなこと分からん」としか答えようがないものであります。本文では述語の重複性から同一視が生じるということ、そのような思考で説明をしました。その頃はまだアベと教団との関係が不明瞭でありました。両者の密接な関係が明るみになるほど、アベを撃った犯人はそれほど病的な思考をしていないと思うようにもなりました。
27通目は自殺に関すること、特に自殺のサインに関するものでした。自殺者は自殺を決行する前にサインを出すという通説がどれほど自殺遺族を苦しめていることか、その思いから書いたものでした。
28通目はグーグルさんにより削除されたのでした。これにはいささかの憤りもあり、そこから29通目と30通目が出来たのでした。
グーグルさんが削除するのは28通目が最初でした。以後、いくつかの便りが削除されることになるのですが、僕から言わせると、グーグルさんの方がどうしようもない。なんでこれが削除されないといけないのか、僕には分からないし、何がどう拙いのか、どの部分が削除の対象になっているのか、まったく何の説明も無しというのが腹立たしい。協力して適正な内容にしていこうという姿勢がグーグルさんからは感じられないのだ。それなら僕の方でも、僕は好きに書くから削除するのはご自由にどうぞ、という姿勢になってしまうのである。
それはさておき、AC信奉者たち、それも狂信的なまでの信奉者に会ったことのある人であれば、僕の言うことも多少は頷けるのではないかと僕は思っている。そういう人に訴えようとすれば、それ相当のインパクトを与えなければならないということもご理解していただけるのではないかと思う。
運営するグーグルさんが投稿を削除するならご自由にどうぞというのが31通目の主旨であります。そこは運営の方で判断して削除するなりなんなりをすればよくて、その場を借りているだけの私にどうこうする権利はないと考えています。
自分の書き方を棚に上げておいて言うのも憚られるのですが、それでも言っておきたいのであります。心の問題について述べると不愉快に思う人が必ず現れるのであります。その問題自体に人をして耳をふさぎたくさせる性質のものが含まれるからであります。
32通目と33通目とはそれに関する内容でした。心理学ショックと私が名付けているところのものを述べました。心理学は人に衝撃を与えることがあるものです。実験心理学の知見でも、人間の行動とネズミとの間には差がないなどと思われると、それだけで衝撃を受ける人もあるだろうと思う。どんな研究であれ、心理学で衝撃を受ける人は現れるものであり、読む方もそれを覚悟しておくくらいがいいだろうと思います。
34通目は芸能ネタであります。ちょっとした息抜きの感じで書いたものでした。青い鳥症候群というのも懐かしい響きであります。1980年代から90年代にかけて、「○○症候群」だの「××シンドローム」などという名称がもてはやされたものでした。誰かがすぐにそういう名称を作ったものでした。現在では、症候群やシンドロームなどよりも、「○○障害」だの「××病」などということになるでしょうか。症候群などと言っている方が良かった時代だったかもしれない。
35通目はカウンセリングに関して一般の人が抱いているイメージに関するものでした。そのイメージは現実とは異なっていることがけっこうあると私は感じています。「話すとスッキリする」という時の「スッキリ」は、基本的に罪悪感等の低下によってもたらされるものであり、いくら話してもそれらの感情を高めるような話をし続ける限り、話してスッキリするなどということは起きないのであります。
36通目も一般の人のイメージに関するものでした。「精神病は治らない」などと信じられているけれど、その「治らない」の内実に関するものです。その一つとして、そのチャンスを逃してきたということ、そうして症状や問題を長期化させてきたことによるところのものがあるわけです。
37通目と38通目は専門用語並びに病名に関する内容でした。37通目で述べた現象は不思議なものであります。社会心理学者が社会学の用語をいくら使用しようとなんら問題はないのです。臨床心理学者には、どういうわけか、問題が発生するのであります。単に言葉を精神医学と共有しているだけであるのに、過剰な反応が生じることもあるように思うのです。それらの言葉が引き起こす反応によるものだろうと思うのですが、一般の人たちの多くは心の病に関する認識が古臭いままであるのかもしれません。
他者に対して病名をつける人もあれば、自分自身を病名で表現することもあります。正式にそう診断されたというわけでもないのにであります。でも、そもそも病名は個人を表現するのに適した概念であるかどうかをも考えないといけないのですが。
39通目は認識に関する内容でした。ヘイトスピーチや差別でもそうでありますが、自分がどういう認識をしているかを自問せずにそういうことをやらかしてしまっていることが多いだろうと私は思っています。
41通目が削除されてしまったのだけれど、逆に言えば、40通目が削除されなかったことの方が不思議である。40通目では、どんな方法を求めても人格水準が低いと無駄であると言っているわけなので、削除されるとしたらこちらの方だろうと思うのである。案外、グーグルさんのシステムも大雑把なのだなと思った。
それはさておき、40通目の内容は今でも私の本音であります。いくら方法を身に着けようとしても、その人の人格水準を超えることはないと考えています。言い換えれば、より多くの方法を身に着けようとするならば、先に器の方を大きくしなければならないということであります。
41通目は私が日ごろから思うところのものであります。個人が誰かにとって唯一の存在になっているという瞬間があるものであります。そこはたやすく見過ごされてしまうことが多いのでありまして、残念に思うこともあります。
自己の唯一性を感じられないこと、それを体験できないことの悩みを寡症状性の人は抱えているのではないかと思うのだけれど、42通目は言葉足らずで終わってしまったようです。削除のことで分量を割き過ぎたのが拙かったようであります。
43通目は、たまたま目にしたワイドショーの事件報道を取り上げたのが拙かったのかも。見事に削除されてしまいました。事件は一つの入り口に過ぎなかったのですが、要するに、自分に親と類似の部分を見てしまうことによる嫌悪感を取り上げたかったのでした。端的に言えば、心的に親離れできていれば、親と似ている部分を見ても動揺することはないと私は考えています。似ているといっても、それが自己に属しているものであり、親に属しているものではないという、親との区別がつくようになるからであります。私はそのように考えています。
44通目はファースト感情体験と私が名付けている概念を述べるつもりでいました。内容としては抽象的なものになり、読んでくれた人にとってもなんのことやら訳が分からない内容になったかと思います。ある出来事を体験して、一番最初に体験する感情のことなのでありますが、それはほんの一瞬の出来事であります。この最初の感情体験は、自他を苦しめることはないと私は考えています。その後、この感情にさまざまな加工がなされて発展していき、悪感情に発展したり、落ち込んだりするものであると私は考えています。そして、自分の感情に気づくとは、最初の感情に気づくということであり、それは相当困難なことなのだということでありました。
45通目から「治る人・治らない人」のシリーズが始まります。以後、この便りはこのテーマを軸にして進展することになります。45通目ではその前置きのような内容となっています。今後の内容を読む際に頭の片隅にでも置いておいてほしいことを綴っています。
46通目は削除されたコンテンツでした。もっとも重要な内容であり、ここを押さえておかないと後々誤解が生じるかもしれないというものでした。それほど重要なページを削除するグーグルさんの良識を僕は疑う。
心の問題とか病が「治る」と言う時、一体、何が治るということを指しているのでしょうか。大抵の人は「治るとはどういうことか」と問われると「症状や病気が消失することだ」とお答えになられるだろうと思うのです。しかし、これは本当は何も答えていないのであります。どうして症状の消失が治るということにつながるのか、どうして両者が同一視されるのか、そこは問われていないからであります。実は私もこの問いに答えることはできないのです。人がなぜ「治る」のかは私には分からないのです。しかしながら、逆説的でありますが、なぜ「治らない」のかに関する疑問の方が考えやすいのであり、「治らない」を通して「治る」に迫るしかないと私は考えています。
それはさておき、46通目では病の二相という概念を述べました。人はこの二層を体験するものでありますが、一方は意識できても、他方はあまり意識されることがないかもしれません。
47通目で述べたかったことは、病の二相を理解すると、人はさまざまな在り方が可能になることが理解できるのであります。病気があっても病人ではないという在り方、生き方さえ可能であり、「病気」があっても「治っている」という状態もあり得るものであると私は考えています。「治る」とはそういうものであると私は認識しています。
48通目では、「感情的正当性の優位」について述べました。これは「治らない人」に典型的に見られる傾向であると私は考えています。
49通目は、前回(48通目)の続きであります。感情的正当性の優位に関して続けて記述しています。この傾向は、治療やカウンセリング(その他のどんなことであれ)において当然生じる困難や苦痛などを耐えがたいものにするということであります。
50通目は「治るとラクになる」という幻想を取り上げました。これは決して真実ではないのであります。本当に「治った人」はそれ以前よりも努力を要する生を送るようになるのです。困難の多い人生を送るようになるのです。それ以上に価値のある何かがその人に生まれていることも結構見られることであります。その価値のために彼らは生きるようになるので、ラクになるために生きるのではないのであります。
51通目も「治るとラクになる」という迷信に関するものです。この迷信を信じている人(大抵のクライアントはそうでありますが)は、どこかで一度失望を経験しなければならなくなるのです。それでいいと私は考えています。失望や絶望から人は生きなおすものであると思うからです。
52通目では、「治る瞬間」が来るという期待に関するものです。これは「治るとラクになる」という迷信と同じくらいに信じられている迷信であると私は考えています。心理療法では劇的なことなど滅多に生じるものではなく、このような期待をしてしまう人は地道なプロセスを耐えられないものと体験していたり、一足飛びで治癒に飛びつきたい気持ちが強かったりするのかもしれません。いずれにしても、「魔術的思考」の一種であると私は思うのです。
53通目でも「治る瞬間」という期待について継続してい綴っています。「治る」過程(あるいは上達とか達成とか克服とかの過程についても同じですが)とは、上がったり下がったりを繰り返しながら全体として上がっていくことであります。「治る瞬間」を夢見ている人はこの過程を受け入れることが難しくなるかもしれません。
54通目は、治癒は創造されるものであり、その治癒は発見されるものであるという経験に関するものであります。その発見は自身でなされるものであるというよりも、周囲の人によって、または周囲の人を介して発見されるものであります。
55通目は治癒の発見の続きであります。自己の治癒は他者の鏡を通して発見されることが多いので、孤立している人はなかなかその機会が得られない傾向が強まるのです。そこでカウンセラーは積極的に変化を認め、フィードバックしていくことが求められると私は考えています。カウンセラーの仕事は、傾聴とか共感ではなく、こうしたフィードバックにあるとも思います。
56通目は上述のテーマの流れで、自分で自分の変化とか治癒を発見しよう欲すれば、それは仮定法の形を取らざるを得ないという内容でありました。そういう形でしか自分の変化が見えないということであります。また、特に述べなかったのですが、寝ている間に見ている夢の内容とか性質を通して変化を知ることもできると私は思うのです。ただ、あまり丹念に夢を記録をつけているという人はあまり多くないかもしれません。
57通目はスタートとゴールという内容でした。「治らない人」はゴールに導いてもらうことを望むという感じがあるのですが、「治る人」はスタートを求めるようになるという主旨でありました。
58通目は、カウンセリングや心理療法によって却って悪化してしまう人たちのことを取り上げるに当たって、その前置きのような内容となっています。「悪化」に関して、クライアント側の要因だけを取り上げている点は常にご記憶願いたいと思います。
59通目は、「悪化する」人たちに見られる「失敗に方向づけられている」傾向を取り上げます。これは成功することに対しての恐怖感や罪悪感を背景に持つものであると考えられるのです。
60通目はその続きになります。常に失敗するわけではなく、頂点を極めてから転落するといったパターンを示す性格傾向を取り上げています。こういう人は一見すると成功者のように映るのですが、必ずしもそうとは言えないと私は考えています。
61通目は前回までの続きであります。「悪化する人」たちの失敗に方向づけられてしまっている人たちについての考察を続けています。
62通目は年が変わって2023年に入って一本目の投稿となりました。61通目からは1か月以上空いてしまって、このページもなかば捨てかけていたのですが、もう少し継続することにしました。その仕切り直しも兼ねて、ちょっとした挨拶のページです。
63通目は、これまで続けてきたシリーズから少し離れて、息抜きの意味で少しばかり他愛もない話題を取り上げています。今回は所得とか所有に関する内容です。お金持ちは不幸であるといったステレオタイプは正しくないと私は考えていますし、断捨離が必ずしもいいものとも思っていません。所持すること、所有することは悪徳だなどと信じ込んでしまうと新興宗教の思う壺になると私は考えています。そうではなく、どういう手段で所有したかが見直されなければならないと思う。
64通目は前回までの流れで書いたものであります。教団に寄付せず天国へ行く方法などと、我ながらデタラメなタイトルをつけたものだ。お遊びもこの辺りにして、継続中のテーマに戻ることにしました。
65通目は、前年まで続けていた「治る人・治らない人」シリーズの番外編である「悪化する人」の続きであります。ここから「権威に対する態度」を取りあげます。臨床家は権威ある者とみられがちですが、権威を払拭するよりも、より健全な権威に修正していく方が大切であります。
66通目は権威に対する態度を、さらに嫌悪、嫉妬、服従と下位分類をして考察を試みています。
67通目は、権威に対する態度は「反抗」を引き出すことがあり得るということを述べました。これは治療や治療者に対して実現化されることがあり、直接的な形を取るものから間接的な形をとるもの、陰性的な形を取るものまでさまざまである。
68通目も、その続きと言いますか、その延長にある内容です。私たちは子供時代を経験しているので、権威に対する態度を身に着けているものであります。それがカウンセリングの場でも持ち込まれることになるのです。
69通目は、権威に対して、そこまで否定的ではないけれど、さほど肯定的でもないと評価できそうな例を取り上げています。相性が合わないとか、生理的嫌悪感があるとか、そういう言葉で処理されていることのうちにも権威に対する態度が含まれていると思うのです。
70通目から「理想に対する態度を取り上げています。こで取り上げているのは改善が見られた時期に生じる現象であります。人は病中にさまざまな理想を思い描いてしまうものですが、治癒に至る頃にはその理想と現実がかけ離れていることが見えてしまうのであります。この理想喪失体験から抑うつやパニックのような反応を示す人も多く、それを悪化と評価してしまうのであります。
71通目は前回の続きであり、では、なぜ病中に思い描く理想が現実とかけ離れてしまうのかについて考えてみました。病中の現実と病後の現実の違いによるところが大きいと私は考えています。
72通目では、クライアントは理想喪失体験をして具合が悪くなったと評価しているのに、それでもなぜカウンセリングを継続するのかについて、私が実際に見聞したところに基づいて考察しています。
73通目は継続中のシリーズである「悪化する人」の最終回となっています。改善の途上に見られる悪化を一時的なものとできるか永続させてしまうか、その要因は何であるかを私なりに考察しています。
74通目はちょっとした息抜きの回となった。病や問題はその人にとって糧になる。それがその人のその後の人生を方向づけることだってある。毒は薬にしていくことが可能なのであります。
75通目もブレークの回となった。人を助けたいという動機の背後には、人に影響を与えたいといった動機が潜んでいるかもしれず、人を殺したいという動機の裏返しであるかもしれない。僕はクライアントがお金を払ってくれるから面接をするのである。それ以上の動機をもたないようにしている。
76通目も、シリーズ以外の、単発のブレーク的な内容です。実力主義は、実力と地位とが切り離されていることが前提としてあるので、そこを混同すると不満を高めてしまうかもしれない。
77通目では再び「治る人・治らない人」のシリーズを続けます。ここでは創造性という観点を取り上げています。治癒とは創造されるものであり、「治る人」は創造的に「治る」のであります。
78通目は創造性に続きであります。創造性は幅広いテーマでありますので、二つだけ述べることにします。ここでは産出的創造と呼べる活動を取り上げています。「治る人」はその過程において何かを産出するといった活動性を示すのであり、それは治療には直接的に関与しない活動であっても当人には意義深い体験となっていることもあるのです。
79通目は創造性に関しての続きです。創造性のもう一つの側面である「調和的創造」と私がそう呼んでいる活動を取り上げています。これは新しい何かと既存の何かとの間で創造される調和を指しています。調和を生み出すこと、これもまた創造性であると私は考えています。
80通目は創造性はどの人にも備わっているという話をしています。その極端な例であるかもしれませんが、死刑囚の状況を取り上げています。ある意味では、人は極限状況では創造性を発揮できるものであるかもしれません。クライアント(治る人)もまた同じような境遇で突破口を見出していくように私は思うのです。
81通目では創造性と課題解決というテーマで、幾分心理学の知見を紹介しています。ケーラーの実験とそれに対するパブロフの反論、さらにその後の追試から、課題解決に至る洞察は先行経験が不可欠であるという結論であります。
82通目は81通目の続きとなっています。人間の場合でも、課題解決の際に、先行経験の有無が要因として働いているのであります。カウンセリングとは、この観点に立脚すると、先行経験の掘り起こしのような作業とも言えるのであります。「治らない人」はその作業を無価値なものとしてみなすことが多いように思います。
83通目はノンシリーズの番外編のような内容です。内的情動から一気に統御不能に陥ってしまう、それが現代人の心の病の在り方であるように私は思うのであります。一旦、心の中で不愉快な感情体験が生起すると、そこからなし崩しに壊れてしまい、食い止めることができないのです。
84通目はこの便り集の最終回であります。一年間続けるという目標を掲げ、その一年が来たからここで終わりという感覚であります。なんの計画性もなく始めたものでしたが、それなりにいろんなことを考え、記述する機会になったと思います。こうして84通の便りを蓄積できたことに喜びを感じるのも、僕の過去志向のなせる業なのでしょう。