#005-24>原因探求の陥穽~原因探求の悪循環 

 

(原因探求の悪循環) 

 原因探求ということから始めると治療期間が長引いてしまい、それはクライアントのニーズと適合していないばかりでなく、クライアントに多大な負担を掛けることにもなりかねないのです。それは前項までに述べたことでありますが、ここでさらにもう一つ付け加えておくことがあります。原因探求にのめり込むと悪循環が生まれるということであります。 

 これは自称ACの人によく見られると私は感じているのですが、例えばここに30歳の人がいるとしましょう。この人がAC者になった経緯はひとまず置いておくのですが、人生上の大きな壁にぶつかって以来、AC理論に没入するようになったとしましょう。実際、彼らは彼らで人生が行き詰まる経験をしているのであります。 

 この人が、自分の人生が上手くいかないのも、生き辛いのも、すべて自分の育ちにあると信じ、その原因を親に求めるようになります。この人は過去における親との関係を洗いざらい意識化しようと努めます。言うまでもなく、こういうことをすればするほど親が悪者に見えてしまうのであります。というのは、最初に悪者ありきで過去経験を見直すようになっているからであります。 

 そして、この人にとって、これまでの人生のあらゆる経験がすべて問題と親との関係に関係づけられていくことになります。問題を中心に、あるいは原因とされる親との関係を中心にしてすべてを回想してしまうからであります。この人は問題とも、親との関係とも、どちらに対しても中立でいられなくなっているのであります。 

 この人に生じるのは、自分の経験したことのすべてが「悪」に見えてしまうという現象であります。これまでの人生のすべてが間違っていたという感覚に襲われてしまうのではないかと私は思うのです。当然、この観念がこの人をさらに苦しめることになります。 

 既に述べたように、このような人はすでに人生上の困難にぶつかっているのです。そこで自我が弱体化していることも多いのでありますが、そこにさらに自我の手に負えない観念が重なってくるのであります。言い換えれば、ただでさえ弱っているところに、これまでの人生のすべての重みがこの人に覆いかぶさってくるので、ますます耐えられない状況に追い込まれてしまうのであります。この人はさらに自分や人生に耐えられなくなり、それがさらなる原因探求に向かわせ、原因探求して過去を取り上げれば取り上げるほど過去経験がこの人に圧し掛かってくることになります。これが悪循環となるのです。 

 仮に原因探求するとしても、その人がそれに耐えられるかどうかという評価をしなければならないのであります。AC者はそういう評価を一切せずに原因探求に走ってしまうようであります。彼らはこうして自らを苦しめることになると私は考えています。 

 

(悪循環からの脱却) 

 このような人がクライアントで来られた場合、何よりもこの人の原因探求行為、過去への耽溺行為を止めることを目指します。とは言え、素直にそれに従ってもらえることはないのですが。 

 しかしながら、中には原因探求行為を止めようと試みる人もおられます。これを止めるというのも当人には苦しいことであります。というのも、この行為そのものがその人にとって自我親和的傾向を有しており、時に一つの症状となっているからであります。症状の形で出していたものを制止するわけですので、苦しくなるのも当然であります。 

 カウンセリングを受けてよけいに苦しいことを体験してしまうので、ここで挫折してしまう人もあります(感情的正当性の優位)。 

 さらに、その人が苦しい思いをすればするほど親が悪いように当人には感じられてしまうのですが、そのように考えてはいけないと私から言われてしまうので、やがてこの人は私を恨むようになるのです。この人の中で対象がシフトしたことになるのですが、そこでカウンセリングを終えてしまう人も少なからずおられるのです。 

 さて、親に向けていた感情が私に向けられることになります。ひどい親に育てられたということからひどいカウンセラーに会ったということになります。本当はこれは最初の一歩であるのです。親に過度に結合した感情を、親から引き離しているわけであります。そうして、親に対する感情と、私に対する感情とをこの人は行き来するようになります。少しずつ親に対する感情を薄れさせていくことがここでの目的であるのですが、この時期は当人にも苦しい体験をすることになります。 

 もし、この時期を通過することができると、この人は親に対する関心が低下しているのです。原因探求の熱が冷めているのです。この状態に至って「気持ちがラクになっている」と報告するクライアントもおられるのですが、その通りであると思います。先述の悪循環の外に出ているからであります。こうなると、この人は親抜きで自分のことを考えることができるようになっていきます。 

 言い換えるなら、その原因探求は結局のところ親の影響下に自らを位置付けることになっていたのであり、その影響下から出ているので、自分自身のことについて考えるのもそれの影響から離れて考えることができるようになるわけです。自我をさらに弱体化させる影響から離れるので、自我も機能していくことになるのです。私はそのように理解しています。 

 そして、この人が自分のことを考えることができるようになり、そこで光明なり希望なりを見出すと、この人にとっては、過去のことよりも、それらが重要なものになっていくのです。見通しがつかないので過去に耽溺してしまうという要因もそこにはあるのですが、見通しがつくと大抵の人はその見通しの方に意識を向けるものであります。過去のことは二の次になってくるのであり、その見通しが最大の関心事になっていくのであります。 

 何か見通しがつくと、それだけで生きる意志が高まるのであります。その見通しがまだ実現しておらず、見通しのままであったとしても、それがあるというだけで生きる意志がかなり生じるのであります。本当に劇的にそれが生じるという場面も私は経験しているのでありますが、非常に重要なことであると考えています。 

 

(原因探求は見通しをもたらさない) 

 原因探求のもう一つの難点がここにあるわけです。原因を探求しても、将来の見通しが生まれるとは限らないのであります。むしろ悪い将来しか思い描けなくなってしまうということも頻繁に見られることであり、それはその人の生きる意志をますます削ぎ落していくことになると私は考えています。もう一つの悪循環が生まれてしまうのです。 

 原因探求、それもAC者のしているような原因探求は、さらに自我を弱化させてしまうだけでなく、さらに将来の見通しを見えなくさせてしまう、そこからさらに原因探求に耽溺してしまうという、二重の悪循環に至ってしまうということであります。原因探求よりも生きる意志の回復が先決であり、そのためには原因探求に耽溺することを控えなければならないと私は考えている次第であります。 

 本節の冒頭で「治る人」は原因探求にこだわらず、「治らない人」はそれに拘るということを述べましたが、それがなぜであるかを本項では綴ってきました。「治る人」は、原因よりもさらに大切なもの、重要なものを見出していくからであります。 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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