<#005-22>原因探求の陥穽~原因探求は治療ではない
(概説)
本節で私が述べようと思うことは至って単純なものであります。「治る人」は原因探求に拘らないが、「治らない人」は原因探求に拘り続けるということであります。
自分に何か望ましくないことが起きると、「なぜこれが起きているのか」とどうしても考えたくなるものであります。学校教育を受けた人はそのような思考傾向を持ってしまうものであると私は思います。ただ、その思考が、いつまでもそこに拘るか、それともそこから発展していくかの違いは相当大きいと私は考えています。
従って、原因探求の方向に進むとしても、そこで停滞してしまう人とそこから先へ進んでいく人との違いがあるというわけであります。このことは、つまり、「治らない人」は一か所に停滞する傾向を伸ばしてしまうことになるわけです。
(治療場面)
さて、少し私たちの誰もが経験したことがある場面を取り上げてみましょう。
例えば、あなたは歯が痛むとします。虫歯でしょうか、歯が痛いのは耐えられないので、あなたは歯科医のもとへと足を運びます。歯科医はあなたの口中を見て、虫歯の個所を特定します。ここが痛みますかと歯科医が指摘すると、まさにそこが痛みの場所であることをあなたも実感します。それから歯科医はその箇所に適切な処置を施していきます。
この歯科医の治療行為には原因探求など含まれていないことが容易に見て取ることができます。なぜ虫歯になったのか、甘いものを食べ過ぎたためか、それとも歯磨きを怠ったためか、歯科医からいちいちそんなことを詮索されたらあなたもウンザリするのではなかろうかと思います。こちらは痛くてたまらず、早く処置してほしいと思っているのに、いちいち原因探求されるのはたまらないことでしょう。
このことは他の医療分野でも同様であります。外科医は骨折した箇所に施術しますが、その患者さんがなぜ骨折したかといったことには無関係に治療を施します。
精神科は薬を処方するだけだといった批判も私は耳にするのですが、それは医学的には正しいのであります。眠れないという人に対して、どうしてその人が眠れなくなっているのかといった原因探求をしていくよりも、先に睡眠導入剤を処方することは適切な治療になるのであります。
そこで原因探求をしないのは、医師と患者双方の時間と労力の節約になるからであると私は理解しています。そこに時間をかけるよりも、先に適切な処置をしなければならず、且つ、そうすることがより患者さんにとって有益となるからであります。
以上を踏まえて次のように述べても構わないと私は考えています。「治療は原因探求抜きで行われるものであり、それが医学的にはより正しい行為である」と。
(病因論と治療論)
医学分野では、病気の原因や成立を研究する部門もあります。同様に治療を研究する部門もあります。前者を病因論、後者を治療論と呼んでおきますが、両方の部門で研究がなされるものであります。
私の個人的な考えでありますが、病因論は、治療論に奉仕するものであるけれど、直接治療には関わらないのであります。
精神分析や臨床心理学の方面でも事情は同じであると私は考えています。精神分析にも病因の研究もあれば治療に関する研究もあります。実際の精神分析療法は、原因探求をしているのではなく、抵抗を除去し、転移の形成ならびに解釈を施し、無意識を意識化することで自我領域を広め且つ機能していくようにしていき、ワーキングスルーしていくことでそれがクライアントの身についていくようにしているわけであります。原因探求をしているわけではないのです。
ユングも『夢分析』の中で両者を区別するような内容のことを述べています。ユングはある患者さんの夢を解釈し、分析して述べているのですが、現実の患者さんにはこういう話をしないということを述べているのであります。つまり、こうした研究と治療の実践とは異なるものであるということを述べているように私は理解しています。
一方では病気や現象の原因や成立などを研究する分野があり、他方では治療に関しての技術等を研究する分野があるということなのですが、この両者を混同してしまう人が多いという印象を私は受けるのであります。
(原因なんて分からない)
しかし、反論もあることでしょう。ある問題が生じた時に、その問題が発生した原因を突き止め、その根本から改善しないといけないのではないかと思われる方もいらっしゃることと思います。確かにその通りであります。通常、問題解決という場合にはそのような思考をすることでしょう。
ただ、心とか精神とかいった領域に関しては、そのような思考は陥穽に陥るかもしれないと私は思うのです。というのは、心や精神は一対一の因果律に応じないからであります。つまり、原因と結果が一対一で結合することなどないであろうと思うからであります。
極端に言えば、あらゆることが原因として措定できるのであります。人が経験するすべてのことが心に影響するので、どんなものでも原因となり得るのであります。さらに言えば、心の病は多種多様でありますが、原因(というものがあるとすれば)はそれ以上に多種多様であると言えるのです。従って、同じ症状であっても、人によって原因が異なるということも生じるのであります。まったく異なった原因から同じ診断名がつくことだってあるのであります。
人間の心とか精神の複雑さを少しでも理解できると、原因なんて簡単に特定できるものではないということが見えるようになると私は思います。そもそも精神現象の原因を探求し、それを特定しようという活動もまた精神の働きであり、あるいは精神が関与している働きであります。因果を生み出しているのも因果の探求をしているのも同じ精神とか心とかによるものであります。精神は因果律に則ることができないと私は考えています。因果さえ区分することを許さないのであります。
(原因探求は治療ではない)
分量の関係で次項に引き継ぐつもりでおりますが、本項では一つの結論として次のことを述べておきたいと思います。「原因探求は治療そのものではない」ということであります。なぜ、原因探求と治療とが混同されてしまうのかといった問題は後に取り上げるとして、本項では、心の問題に関しては、原因というものがとうてい特定できないものであるという点だけは押さえておきたいと思います。
そこから取り組んでしまうと、人は袋小路に陥ってしまうと私は考えています。というのは、これまで経験したことのありとあらゆることがそれの原因や誘因に見えてしまうからであり、経験したことのすべてが現在のこの問題に関係しているように見えてしまうからであります。
もし、これまでの人生で経験したありとあらゆる経験が、今のこの問題に関係していると考えてしまうと、その人はどうなってしまうでしょうか。自分の人生を呪わしく思えてくるのではないかと思います。あるいは自分自身に絶望してしまうかもしれません。自分に関するすべてがこの問題に関係しているように見えてくるからであります。原因探求に拘ってしまうとそこに行き着いてしまうようであり、現にそのように思える人とお会いすることがあります。
カウンセリングにおいて肝心なことは、クライアントにその陥穽に陥らないようにすることにあると私は考えています。クライアントがどう思おうと、その人に原因探求に踏み込ませてはいけないのであります。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)