1月13日:性格の話(中絶)

1月13日(水):性格のお話(1)(中絶)

 

 最近、クライアントさんたちとお会いして僕が思うのは、彼らは性格というものをどういうものとして理解しているだろうかということである。

 性格に関しての話をしていこうかなと思うのだけれど、難しい話はしたくないので、まずは陳腐な喩えから入ろう。

 お酒を飲んだ後、〆で何かを食べるという人も多い。ある人はラーメンだ。僕もこれに属する。しかし、うどんを食べるという人もある。焼きそばという人もある。実際にそういう人がおられるのだ。あと、おでんという人もある。この人は飲んだ後はコンビニに入っておでんを買うのだが、おつゆを容器にいっぱいいっぱい入れるのだそうだ。また、家に帰ってお茶漬けを食するという人もある。当然、その他のものもあるだろう。

 上記の話は、こういうふうに表現することができる。お酒を飲んだ後の〆は、ラーメン派、うどん派、焼きそば派、おでん派、お茶漬け派とに分類できると。性格心理学における類型論とはこのようなものである。

 さらに次のことを僕が述べてもこれを読む人の中にそれはおかしいと思う人はいないだろうと思う。〆はラーメン派という人でも、時にはうどんを〆で食べることがある。〆でうどんを食べることがあるけれど、大体においてラーメン派は〆にラーメンを食べる。どの派においても、大体はその派に属するけれど、例外的な時もけっこうあるということを認めるのは困難ではないと僕は思うのだけれど、いかがなものだろうか。

 性格の類型論というのは、性格のタイプを規定するものである。この論では、性格は「○○型」とか「××タイプ」などといったカテゴリーで示される。この「型」とか「タイプ」とかいうものが上述の「派」と考えると分かりやすい。従って、ある人の性格傾向が「○○型」であると示されても、その人が常に「○○型」の言動を示すというわけでもないのだ。

 もう一つ、性格論には特性論というものがある。これはそれぞれの特性を個人がどの程度有しているかを示すものである。これはタイプや型で分類されず、プロフィルとして性格傾向を表わす。

 さて、類型も特性も、例外が起きることもあれば、生涯の間に変化することも多い。例えば外向と内向がある。これは心的エネルギーの方向に基づくものであるが、子供時代は外向で、青年期には内向になり、大人になってから再び外向になるといった変化はよく耳にするところである。それに伴って、もしその都度性格検査をしていたら、性格類型もプロフィルも変化したことだろうと思う。

 

 これはオルポートが非常に苦心したところであるが、性格のタイプやプロフィルよりも、内部体系の方が重要である。僕もそこを考えることになる。確かに、その前段階として個人の性格を類型に分けたりプロフィルに表したりすることも有益であろう。一般の人はそこで終わるのだけれど、臨床家はそこから始めることになるのだ。

 例えば、知能は良好で、癇癪を起しやすく、人には親切だという性格傾向の人がいるとしよう。これだけ読むと、そういう人なんだなくらいにしか分からない。一般の人はそれで終わるけれど、臨床家はそこからさらに考えていくものだと僕は思うわけだ。

 この人は知能は良好である。低いわけではないし、平均よりも少し高い程度であるが、ずば抜けて高いというわけではない。彼のその良好な知能が癇癪とどのような関係にあるのだろうか。彼のその知能は親切ということにどのように影響しているだろうか。彼が癇癪持ちであることと人に親切であるということの間にはどのようなつながり乃至は拮抗があるだろうか。内部体系とはそういうことである。個人の中にあるそれぞれの特性が相互にどのようにかかわっているかということであり、これを理解することが性格理解ということになるわけだ。

 

 病的な性格とは何か極端な傾向を持っている人というイメージを持たれる方もいらっしゃるだろうと思う。しかし、ある傾向が極端であるというだけでは病的とみなすには不十分である。一つの極端な傾向と、それに反する極端な傾向が同一の人に備わっているということが病的であることの一つの指標となる。僕はそのような見解に立っている。

 例えば、ある人は極端に博愛的である。こういう人は闘争的とか暴力的といった傾向が低くなるだろう。しかし、博愛性が極端に高く、同時に暴力的傾向も極端に高いとなれば、この人の性格はかなり分裂傾向を示していると考えてよさそうになる。

(中断)

 

(このテーマはここで中断している。書いていて面白くなくなったからである。実につまらん内容だ。書いている方が面白くないと感じているのだから、読む方はもっと退屈に感じるだろうと思う)

 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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