<#005-17>感情的正当性の優位~カウンセリング治療場面(5) 

 

(完全主義との結合) 

 感情的正当性の優位は、どうしても極端な傾向を生み出してしまうと私は考えています。その点に関しては後に述べる機会があるので、そちらに譲ることにします。極端な傾向を生み出してしまうので、完全主義と親和性が高いようにも感じています。感情的正当性の優位と完全主義とが結合した場合、私にとっては、非常に面倒な人たちが生まれることになります。 

 ある人たちは、感情的に納得するとか満足するとか、完全にそれらが得られないと先へ進めないという態度を取られることがあります。先に前へ進んでから、後から感情的な納得とか満足を得られることもあると私は思うのですが、このような人たちは先にそれらが得られないといられないようであります。そのため、話し合いなどでも、一つの場面とか一つの話題に延々と拘泥されるのです。そこが完全に(感情的に)納得できないと、絶対に先へ進まないのです。 

 喩えて言えば次のようになるかと思います。一つ高い所に登ればそれだけよく見渡せるものであります。高い所へ上れば上るほど全体がよく見えるようになり、見えていなかった部分も見えるようになったりします。でも、この人たちは今見えているものを全部見てからでないと上らないと言っているようなものだと私は思うのです。 

 当人の「納得」は、当人の感情が決定するものなので、周囲が何をやっても無駄になることもあります。不満な点はあっても先へ進んでみようという働きかけはまず拒絶の目に遭うことの方が多いように私は感じています。 

 話題とかテーマだけでなく、過去の一つの事柄が完全に解消できないと先へ進めないというような人もおられるのです。未解消なまま先へ進むことは不快感情を喚起するのでしょうか、あるいは、その一つの事柄にまつわる不快感情に拘束されているのかもしれません。いずれにしても、その不快感情を完全に払拭するまではテコでも動かないといった頑なさを見せる人もおられるのです。 

 結局のところ、それは柔軟性を欠くということになり、その人たちは自分の主観的感情を重視するあまり視野も狭くなっているのかもしれません。 

 

(感情で決定されること) 

 感情的正当性の優位では、知覚したこと、体験したこと、それらの認識が感情で決定されてしまうことになります。快不快によって解釈されるので、現実とはズレることも多々あるものと思います。 

 完全主義との結合があると、自分と完全に一致するもの(快感情をもたらす)が正しくて、少しでも不一致な何かがある(不快感情をもたらす)と耐えられないということも起こります。しばしば、カウンセラーに自分と完全に一致するような共感を求める人もありますが、それは必ず満たされるとは限らないのです。むしろ、そういうことが人間関係で常に満たされるとすれば、その人はいつまでも自他の区別が形成されなくなるでしょう。 

 日常の人間関係でも、こちらが意図せずとも、相手を傷つけることがあります。そのような時に、相手がよくしてくれたのに、何か感情的に受け入れらないことのために、相手を猛攻撃してしまうといったことが起きるのであります。 

 「良くなってきたね」というカウンセラーの一言に激怒したクライアントも私は知っております。通常なら、そのような言葉は嬉しいものでありますが、このクライアントはそれを違った意味で解釈したのです。おそらく、感情的な不一致だったと私は憶測しています。このクライアントは、そのカウンセラーから「これからもずっと来てね」と言ってほしかったのだと思います。そのカウンセラーがそう言っていればこの人も安心できたのでしょう。「良くなってきたね」というカウンセラーの言葉は、このクライアントにとって、この関係の終了を宣言されたかのように解釈されたのだと思います。 

 そして、不快な感情体験はとにかく悪いものと評価されるので、このクライアントはカウンセラーを猛攻撃しなければいられなくなったのでしょう。悪い感情体験を自分から追い出し、良い自分を回復するためにもそれは必要なことであり、そのためにはその悪い感情体験をもたらした張本人をやっつけなければならなかったのでしょう。そのように理解できることはできても、やはりこれは正しいやり方ではないのであります。 

 もし、このクライアントが、「それって、この治療はもう終わりにしようということですか」とカウンセラーに尋ねることができれば、そのような解釈には至らなかったかもしれません。しかし、これができるのであれば、そのクライアントは感情的正当性の優位から脱し始めていると私は考えます。感情だけで判断することに制止がかかっているからであります。 

 ちなみに、このクライアントは、そのカウンセラーの一言で怒りを爆発させ、このカウンセラーに見切りをつけたのでした。要するにカウンセリングを中断したのでした。 

 

(成否は感情で決定される) 

 他にもさまざまなことを取り上げたいと思っています。感情的正当性が優位であると、敢えて危険に飛び込むようなことをやらかしてしまうとか、人間関係のあちこちでトラブルを巻き起こしてしまうとか、それらが治療やカウンセリングの継続を危うくすることもあるのですが、そこまで話を広げないことにしましょう。この辺りで一つ締めくくっておきたいと思います。 

 感情的正当性が優位である場合、治療やカウンセリングの正否はその人の感情だけで評価されてしまうことになります。気分が良くなったから治った、治療は成功したということになり、不快感情を体験したとか気分が悪くなったから治療は失敗だったということになるわけであります。すでに「うつ」から「躁」への移行のところで見てきたことですが、主観的感情や気分だけで判断されていることになります。 

 もちろん、クライアントの主観的感情体験を軽視するつもりは私にはないのですが、それだけで判断するわけにはいかないということです。成功か失敗か、それを判断・評価しようと思えばもっと他の要素、他の視点からも見なければならないのであります。 

 例えば、悲しめなかった人が悲しむようになったとか、痛みを痛みとして感じられるようになったとか、葛藤を経験したり抱えるようになったとか、待つことができるようになったとか、これらはすべて望ましい達成であると私は思います。感情的正当性が優位である場合、これらはいずれも不快感情をもたらすので、悪いことだと評価するでしょうし、それらの達成はむしろ「悪化」として評価されてしまうかもしれません。 

 そもそも感情的正当性が優位なところでは、迷ったり悩んだりがないわけなので、その人が迷いや悩みを経験するようになったとすれば、それはその人が精神的に一つ成熟したことを意味するのですが、それらも「悪化」と評価されることになるでしょう。現実には感情以外の要素を交えて決断できるようになるから迷いや悩みが生じるのであります。 

 従って、感情的正当性が優位な人の判断や評価というものは、しばしば逆転するのであります。 

 

 感情的正当性の優位ということに関して、まだまだ述べたいところのものが残されているのですが、一旦次のテーマに移っていきたいと思います。「治る人」たちはどういうことをしているのかを述べようと思います。 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

 

 

 

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