<#005-19>感情的正当性の優位~「治る人(2) 

 

 「治る人」が不快感情体験に対してどういうことをしているか、二つの点を取り上げたいと私は述べました。一つ目は前項に記述したものであり、それは不快感情以外の要素が働くために不快感情体験が重視されなくなるというものでありました。 

 本項では二つ目のものを記述することになるのですが、これは私たちが日常的に経験することでありながら、あまり明確に理解されていないという性質のものであり、少し説明を要することであります。 

 「治らない人」たちは、しばしば、「治る人」は自分がしているような苦しみを経験していないとか、普通に生活をしている人を見ては彼らは苦しんでいないなどと言うことがあります。ここで述べることは、前述の一つ目の見解は正しくないということになるのですが、二つ目の見解は正しいということになるのです。まず、順を追ってのべていくことにします。 

 

(不快を忘れる) 

 私たちはどの人も痛みを経験したり、不安や心配、気がかりを抱えてしまったり、心身の不調を経験することがあります。それらは好ましくない経験であり、不快感情をもたらすような経験であります。 

 ここでは痛みということを取り上げます。それが分かりやすいということもあり、おそらく経験的に分かるという人も多いであろうと思われるからであります。 

 私たちは身体に痛みを覚えます。肩が痛いとか、腰痛とか、歯痛、頭痛、私のように足が痛いということもあるでしょう。それでも、仕事や家事など、何かに集中していると「痛みを忘れている」ということに気づくことがあります。 

 もし、鎮痛剤なんかを服用していなければ(服用していても同じだと思うのですが)、その痛みは作業中もずっと持続しているはずであります。ところが、作業に集中している間は、それを忘れているのです。その作業を終えてから再び痛みを感じだしたりすることもあるでしょう。 

 こういう時、集中して痛みを忘れていたとか、痛みが紛らわされていたとか、そのように表現される方が多いのですが、それは正確ではないと私は思うのです。集中している間、その痛みが知覚されていないと言う方が正しいと考えております。 

 時に、痛みのために集中できないという経験をします。そういう時は作業中もずっと痛みを経験しているということになります。痛みがあるから集中できないと思われがちでありますが、私は逆ではないかと考えています。集中困難なので痛みが知覚されているのではないかと思うのです。 

 今の話を読むと、痛みの程度の違いも関係するだろうと反論される方がいらっしゃると思います。私はそれは保留しておきます。痛みが激しいので集中できないということもあり得ることを認めたいとは思います。一方で、相当激しい痛みを抱えながら何かをやり遂げたというような偉人の話もあるので、痛みの程度がどの程度関係するのか、私は何とも言えない思いがします。基本的に、痛みの程度や性質、種類はあまり関係がないと考えています。 

 それはさておき、私たちは何かに集中します。集中するとは、その対象に対しての自己参与度が高いと考えることができます。対象(これは人であれ、事物であれ、仕事や家事などの作業であれ、自分が今関わっているものすべてを含みます)への自己参与度が高いほど、対象に集中しているわけであり、自己参与度が100%だと「没頭」になるでしょうか。少し下がったら「熱中」「熱心」ということになるでしょうか。自己参与度が低くなるほど、「時間つぶし」だったり、「不真面目」だったりすることでしょう。ここで言う「集中」とは自己参与度のことであり、それには高いものから低いものまで様々な段階があるということをとりあえずは押さえておきたいと思います。 

 さて、以上のことを踏まえて、次のように定式化することができると私は考えています。つまり、「主体の対象への自己参与度が高いほど痛み(不快)に対する感受性が低下し、対象への自己参与度が低いほど痛み(不快)に対する感受性が高まる」ということであります。 

 痛み(不快)の感受性が高まるとは、小さな痛みでも敏感に感じ取りること、小さな痛みを実際以上に大きく知覚してしまうことなどを意味しています。集中している時には、痛みを忘れているのではなく、痛みに対する感受性が低下しているので、痛みがそれほど知覚されないということになると私は考えています。 

 哲学者のカントはツー(痛風)持ちであったそうです。私もツー持ちなので、カントとはツーダチ(ツー仲間)という親近感を覚えているのですが、そのカントはツー発作の際に、ひたすら哲学的問題に没頭したそうであります。そうすると痛みが忘れられ、時には痛みが消失していることもあったそうです。それでもツーの痕跡(これはツー持ちなら分かる)が残っているそうでした。 

 アーチェリーの選手が狙いを定めている時に、選手の腕にピンを刺したという実験をサリヴァン(このオッサンは精神科医としては一流だが、人間としては問題ありだ)は、この選手が痛みを感じなかったこと、ピンを刺されたことにも気づいていなかったことを報告しています。つまり極度の集中知覚の感受性の低下をもたらしているわけであります。 

 私もツー持ちである上に、膝を悪くしているので、しょっちゅう足に痛みを覚えるのですが、そういう時こそ対象に没頭しようと決めています。映画を観る時でも、受身的に見るのではなく、積極的にその映画に参与しようと心がけています。そうしていると自己参与度が高いほど、痛みの感受性が低下するということを実感します。私の場合、常に少々の痛みがある方がいいクスリになるのかもしれませんが、私の実体験からもそう思われるのであります。 

 

(対象との関り) 

 さて、重要なことは対象との関係であります。対象に対して、どれだけ自己を参与できるかということがここでは重要なのであります。ここまで「痛み」で見てきましたが、同じことが、不安や不調、孤独感、傷つきなど、その他の不快体験においても見出せると私は信じております。 

 孤独感に苛まれる人は、ただ人と一緒にいるだけではやはり孤独なのです。その相手と関与することができないなら、その人は誰と一緒にいても孤独を体験してしまうことでしょう。 

 不安に襲われる人は、彼が何もしていない時に不安に襲われることが常であります。仕事一筋に生きていた男性が退職した途端にパニック障害に陥ったという例もあるのですが、この場合、仕事が不安を防衛していたと考えられるのであります。ただ、むしろ、仕事によって不安への感受性が低下していたと考える方が適切であるようにも私は思うのです。仕事がなくなったこと、自分自身を参与させる対象がなくなったこと、それによって不安への感受性が高まってしまったのだと私は思うのであります。 

 

 本項を終えるに当たって、もう一度、定式化したことを繰り返しておきましょう。 

 「主体の対象への自己参与度が高いほど不快に対する感受性が低下する、自己参与度が低いほど不快に対する感受性が高まる」 

 この定式を踏まえて、考察を進めていくことにします。 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

 

 

 

 

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