1月3日(日):読書論
今日も高槻に来る。家の用事がほとんどなかったので今日は昨日よりも早く到着する。先にブログを書いてしまおうと思う。
この後の僕の予定は、4時間ほど書いて、4時間ほど読んで、少々の雑務をこなして、それで終わりといこう。
よく本が読めるなと感心されることがある。僕にしてはそんなに特殊なことではないんだけれど、それを言う人は本を読むのが苦手な人なんだろう。
読むのが苦手という人は読み方を知らないのだと僕は思う。
ちょうど家を出る時に両親が箱根駅伝を見ていたけれど、おそらく両親は訳もわからず見ていることだろう。上りと下りとでは走り方が違うのだ。追い風と向かい風とでも走り方を変えるものである。傍目から分からないところなんだけれど、走っている方は意図的に、あるいは自然にかもしれないが、場面に応じて走法を変えているものである。
本を読むというのも同じで、本に応じて読み方を変えるものである。読むのが苦手という人はどの本に対しても一つの読み方しかしないように思う。
正式な名前なんてないんだけれど、僕は通読、熟読、精読と呼んでいる。通読とはその名の通り一通り読むという読み方である。熟読は繰り返し読む読み方である。精読とはさらに丹念に読んでいく読み方である。
僕はすべて通読から始める。そこから一部の本は熟読に至るだろうし、そこからさらに一部が精読の本になる。精読に至るほどの価値ある本は一握りである。大半は通読で間に合うものである。気に入った本は熟読になる。
通読した本は、その内容を大まかに伝えることができる。熟読は本の内容をかなり正確に伝えることができる。精読した本はその本について評論できるようになる。評論家になるのでなければ精読まで至らなくてよいものである。通読、熟読で十分である。
読むのが苦手という人は最初から精読しようとし過ぎるという印象を僕は持っている。最初から丹念に読み込もうとし過ぎるのである。一回、ざっと読んでみればいいのである。内容が分からなくても最後まで読むと何となくでも理解できることも多いものだ。そこからもう少し理解したいと思えば再読していけばいいだけのことである。
また、若干の準備もしておくと効果的である。小説の場合、登場人物表があれば、本文を読む前に登場人物を頭に入れておくのもいい。論文等では目次読みをして全体図をつかんでおくのも効果的である。
目次読みとは、その名の通り目次を読むのであるが、章や節のタイトルを読んでいくだけで、おおまかな構成が把握できたりする。最初にこういうことを述べて、次にこういうことを述べていくんだな、そして最後はこういうことに至るのだなくらいのことでも先に分かっていると読みやすくなる。全体の構成を先につかんでおくということだ。
専門書なんかでは序章あたりに全体の構成を説明してくれているものも多いので、そこを頭に入れておくとよい。各章に要約を付してくれている親切な著者もあるので、その場合、先に要約を読んでおくのも良しだ。
活字を読むと眠くなるという人もある。眠くなることは何も悪いことではないのだ。そういう人は寝る前の楽しみとして、あるいは寝る楽しみのために、読書を活用してよろしいことである。
読む時間がないという人もある。そういう人は空き時間に読もうとする人であることが多いという気がしている。隙間時間に読書するというタイプだ。これはあまりお勧めしない読み方である。空き時間でも本を読むというのは、相当本を読みなれている人にしかできないことだと僕は思っている。最初は一日のどこかに本を読む時間を意図的に設けなければならない。何時から何時までは本を開くといった習慣を身につけるのが先である。
完全主義な人も本を読めない。こういう人は、例えば小説の情景描写なんかでも完全にその情景が思い浮かべられるようになるまでは先へ進まないのである。一文を完全に理解しないと次の文章に進めないという強迫的な読み方をしてしまうのである。少々分からないことがあっても読み進んでいくと分かることもある。細部にこだわるよりも全体を大まかにでも理解できれば十分である。
書物は人類の遺産だと思う。別の時代に別の国に生きた人の経験も書物を通して接することができる(翻訳はしてもらわないといけないけれど)。出会うことのなかった人とも書物を通じて出会うことができる。読書は素晴らしい趣味である。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)