3月24日(土):不幸な人々
今日はサイトを一切触らず終わった日だった。明日は家庭の事情で臨時休業するので、明日も触ることなく終わりそうだ。これを公開するのは月曜日になるだろう。ここ数日分がすでに未公開状態で溜まっていっている。こういうのを何とかしないといけないな。けっこうこれが面倒な作業なのだ。それでついついまとめてやってしまおうという発想になってしまうのだ。この面倒臭がりの性格もなんとかしないといけないな。
ブログは毎日書くようにしている。これをしないとワードの練習にならないからだ。目標は話す速度で打ち込めること、あるいは考えが即座に文章化されているという状態を目指している。以前よりはその目標に近づいた感じはするが、まだまだ遅い。
今日は、昨日と同様に論文を読んで過ごすことが多かった。夜はいつもの喫茶店に入ったが、いつもは原稿を書くのだけれど、昨日は勉強して過ごした。フロイトの論文を読んで過ごす。そこで二つほど読んで、三つ目に取り掛かったが、それは明日に跨りそうだ。
帰りの電車、駅はとても騒がしかった。騒いでいる連中をたくさん見かけたよ。いや、それは駅だけではなかったな。喫茶店の中でもそうだったし、通りを歩いている時にもみかけた。大抵は何人かの集団で、賑やかな人たちである。僕は苦手だ。僕自身はああいうことはできないし、したいと思わない。彼らを見て、僕は幸せそうには見えないのだ。どこか強迫的な騒がしさであるという感じを受ける。躁的防衛と言っていいかもしれない。内心、とても不安なのじゃないかな。
ある人が躁的になりすぎていると、その人は躁病が疑われてしまうのであるが、躁病って言うのは、うつ病以上に不安に襲われていることがあるものなんだ。実際に躁病の人と会ってみると、そのことがよく分かるというものだ。躁的で、一見すると、とても多幸的に見えるのだけれど、その実、不安で不安で堪らないものだ。周囲の人はそれをよく感じ取るものなんだ。僕も今日はそれをしっかり感じたよ。
ある人たちは大声で騒いでいる。子供っぽい感じだね。でも、何かに追われているような切迫感を彼らから感じるのは僕だけだろうか。愉しいからそうしていると言うのではなくて、そうしなければいられないという強迫感からそうせざるを得ないという緊張感が漲っている感じがするね。恐らく、見た目の行為以上に、彼らは不幸なのだろう。
今日、幸せを本当に体験している人は少ないものだという話をクライアントとしたのだけれど、こういう光景を見ると、僕は自分の見解がとても正しいものに思えてくるんだ。本当に幸せを体験している人は、むしろ穏やかになるものだと僕は思う、いや、実際、そうなんだ。その人は無理に楽しまなくてはならないなんていう強迫観念を抱く必要がないのだし、大声で笑わなくても十分な幸せを他の部分でしっかり体験しているから、むしろ静かなのである。
今夜見かけた賑やかな人たちを見ていると、今ここで笑っておかないと後で笑うところがないよという「くにおとおる」の漫才じゃないけれど、あたかも今ハッピーでないと後でハッピーなことがないという切迫感を僕は感じてしまうね。
でも幸せを体験している人はまずそういう風には捉えないものだ。なぜなら、この先にも幸せがあるということを信じられるからである。だからこうも言えるかもしれないな。不幸な人ほど瞬間的に生きていると。幸せな人は時間展望の中に生きていると。
さて、あなたはどちらに入るでしょうか。そして、僕はどっちだろう。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)