3月26日(月):連想のままに
今日は「姉さん」が午前中に来た。別に来てくれる分には構わない。でも、保険の勧誘員である「姉さん」は必ず営業を兼ねて来訪される。僕は僕で一件保険に入っているので、これ以上増やすつもりはない。
それに保険と言っても、僕の場合、それ以前の問題を何とかしなくてはならないのだ。例えば、2月に転倒して以来、膝の具合が悪い。Yさんからは病院に行ってと哀願されているが、病院に行くとなれば一日仕事である。その一日が思うように取れないのだ。
原付の免許の件だってそうだ。あれもまた一日仕事になりそうだ。だから話が進まないまま、停滞しているのである。
週に一日定休日はあるが、明日の定休日は仕事が入っている。来週は今年の一月に予定していた用事が入っている。再来週もまた仕事が入っている。次の休みは三週間後だ。こんな状況で一日仕事になる用事はなかなか入れることができないのである。
一日単位で見ていくと、それほど忙しくはない。半日だけとか、三時間だけ空いているとかいうような日はある。でも、一日空けるとなると、けっこうたいへんなのだ。
つまり、保険に入っても、その前に、医療にかかれるような生活をしていないのである。この生活を何とかしなければ、保険のことなど考えられないというのが正直なところだ。
でも、今日、「おやっ」と思ったことがある。昨日あれだけ痛みのあった膝が、今日はましなのだ。それどころか無痛である。一体、昨日の何がこの回復に貢献したのだろう。よく歩いた一日だった。それにいつもよりぐっすり眠ったというのも関係しているかもしれない。それに、心配事が一つ片付いたというのもあるだろう。心理的な事柄が大きいのだ。だって、痛みというのは本当は心的な事柄なのだから。
自然治癒というものは常に後から振り返られるものだと僕は思う。これをやったらよくなると初めから分かっているわけではない。昨日まであった痛みが、今日はまったくないとしたら、それは昨日したことの中で「治療的」な事柄があったはずである。それが何であったのかは、常に後になって振り返らなければ見えてこないものだ。
明日は仕事が終わってからYさんと会うことになっている。愉しみである。一緒に歩く時に、膝の痛みが気になって仕方がなかったのだけど、明日も痛みがなければ、きっといつもよりも楽しめるだろうと期待している。
Yさんも新しい就職先で頑張っていることだろう。最初の内は何事もたいへんなものである。何とか耐えて欲しいと僕は思う。慣れると気を引き締める部分と緩める部分との区別がついてくるだろう。それまでは張りつめっぱなしになるもので、とても神経を使うものである。そして、その仕事の中で、愉しみややり甲斐を見出していければいいなと僕は思う。せっかくこの世に生まれてきたのに、独り閉じこもってしまうなんて勿体ないことだと思う。仕事をしていると、何かこの世に生まれてきたことの痕跡を残すものである。
連想の働くままに書いてきたが、「姉さん」~保険~医療~膝の痛み~Yさんという流れだったな。話とか連想というのは、どこから入っても、必ず一定の箇所に辿り着くものである。僕はそう思っているのだけど、本当にその通りだなと思う。そうして辿り着いたところのものが、その人が現在最も関心を割いている部分であったり、コンプレックスであったり、「問題」であったりするものである。Yさんとの関係は、僕にとってそのすべて該当するものである。Yさんのことは好きであるが、好きであるがために生じる悩みも抱えている。でも、これはきっと克服されるものだと、僕は根拠のはっきりしない自信を持っている。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)