10月6日:イメージされた僕
今日は家庭の事情で仕事を臨時休業している。おかげで、今日は一日中外で、人の輪に混じって過ごすことができた。けっこう爽快感がある。
僕はあまり社交的な人間ではない。でも、人中に出るのもそれほど嫌いではない。相性の合わない人や、欠点や「病理」が目についてしまう人もいるのだけれど、あまり人を嫌いになることはない方だと思う。嫌いになる前に関心を失うと言う方が正しいかもしれない。
こんなんだから薄い人間関係を築くことが多い。それに、濃いと言うか、べったりした人間関係は息苦しいとさえ感じる。「君子の交わりは水の如し」と言うが、僕もそれくらいの人間関係で満足できればいいと思う。
かつて、「寺戸さんはあまり敵を作らないでしょう」と言ってくれた人がある。僕は「そんな、周りは敵ばかりやで」と冗談で返したけれど、その人には僕のことが敵を持たない人間のように見えたのだろう。そうだ、どうしてそう思うのかその人に尋ねたのだった。その人は僕が穏やかなので(その人にはそう映っている)、敵をこさえないだろうと考えたのだそうだ。
また、女性のクライアントで、僕のことを「愛されキャラ」と評してくれた人もいたな。彼女には僕がそう映っていたのだろう。そんな風に見てくれるのは、ありがたいと言えばありがたい。延々と恨まれるよりかは遥かにいい。
二人とも僕のイメージと関わっておられるのだ。そのイメージに現実の僕が多少なりとも含まれてはいるのだろうけれど、それは現実の僕ではないかもしれない。
こんな話をするのは、今日、いろんな人と会って、けっこう僕がいろんな風に見られているのだなということにふと思い至ったという経験をしたからだ。それは現実の僕ではない。本当の僕ではなくて、その人たちの心の中にある僕なんだ。だからたくさんの僕が存在することになる。一人一人の中にある僕のイメージ、像があるわけだ。それらは人によって異なる部分があるものだ。従って、僕という人間もさまざまな僕が存在しているということになる。
こんなことを考えていると、では本当の僕、真実の僕という存在は、それほどしっかり存在しているだろうかという疑問さえ湧いてくる。イメージされた僕は千差万別だ。優しい僕から怖い僕まで、好かれる僕から恨まれる僕までいろいろだ。考えてみると、怖いことだ。ある人の中では、現実の僕とはかけ離れた僕が存在しているのかと思うと、本当に恐ろしい。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)