<#016-5>何派の先生ですか 

 

<Q>「そのカウンセラーは何派の先生ですか」 

 

<状況と背景> 

 これは私が直接問われたものではありません。問われたのはある女性クライアントでした。彼女は私のカウンセリングを受けているということを知人に話したそうです。すると、その知人の方がこのような問いを彼女に発したのでした。ちなみに、その知人の方は多少心理学をかじっておられるようでした。 

 

<A> 

 私は自分がどこの学派に属するかなどと考えたことがありません。自分でも何派に属するのか知らないのであります。 

 強いて言えば「折衷派」ということにしておこうと思うのですが、「折衷派」とは、結局のところ、何派に属しているのか不明であることの言い換えでしかないのかもしれません。 

 

<補足と解説> 

 私も20代前半のころはフロイトに熱中していたので、当時の私はフロイト派と言えなくもないのかもしれません。 

 でも、経験を積むと一つの学派へのこだわりが薄くなってくるのです。あるいは、学派に関係なく、さまざまな臨床家から学ぶようになるのです。これに関しては後に取り上げましょう。 

 

 ところで、ユング派とかアドラー派とか、こういう学派は数え上げると無数にあるのです。精神分析系でも、フロイト派、ネオフロイト派、対象関係学派、自我心理学派、英国学派、自己心理学派等々があり、さらにはコフート派とかクライン派、ウィニコット派などと各臨床家の系列があるのです。 

 今述べたのは精神分析系の学派でしたが、これにカウンセリング系、行動主義系、家族療法系、短期療法系等々に複数の学派が存在するのです。さらに、現象学派、実存学派等の哲学系の学派もあり、その対局としての生理学系の学派もあるわけです。 

 私が思うに、一人の臨床家が一つの学派だけに収まることの方がおかしい気がするのです。これだけの学派が存在しているのに、一つに限定することもできないだろうし、もし、一つに限定したとしても、それはそれで偏狭な臨床家ができあがってしまうのではないかという気もするのであります。 

 学派というものは、臨床家が基礎として持っている知を示すに過ぎないものであると私は考えています。その人の流儀であり、あるいは、単に、その人が最初に受けた教育であるとか、最初い信奉した理論を表しているに過ぎないものであると私は考えています。 

 

 心理療法学派関して私の思うところのものを綴っておきましょう。 

 さて、一臨床家が一つの学派に収まることはないのであります。どうしても他の学派のことも学ぶことになるからであります。 

 例えば、ある人がフロイト派であっても、その人はフロイトだけを学んでいるわけではないのであります。フロイト理論を深く理解しようとする際に、他の学派を学ぶことでフロイトがより理解できるということもあるのです。つまり、フロイトを理解するのに、反フロイト派の理論が助けになることもあるわけです。一つの学派が孤立しているわけではないので、つまり、それぞれの学派は相互に関係を持つものであるので、自然と他の学派のことも学ぶことになるのであります。 

 従って、一つの学派に収まるというのは、臨床家としての可能性を制限してしまうと私は考えています。 

 

 フロイト派の臨床家は、フロイトを一つの軸として支持しているに過ぎないと私は考えています。その人が仕事をする上での一つの核となる部分にフロイトがあるわけであります。だから、その人はフロイト派であっても、フロイトと同じことをしているとは限らないのであります。学派というのはそういうものであると私は思います。 

 従って、一つの学派に属していても、そこには種々さまざまなタイプの臨床家がいるのであり、各臨床家が自分なりの方法論を有していたりするのであります。そうなるのが当然なのであります。 

 おそらく一般の人(この問いを発せられた方も)は、学派というものを、宗教における宗派のように誤解されているように私は思うのです。 

 

 さて、先送りしたテーマに戻りましょう。経験を積むと学派へのこだわりがなくなるのです。 

 私は生きた人間を相手に仕事をするのです。生身の人間を相手に仕事をすると、どうしても一つの理論、一つの学派だけではやっていけなくなるのです。どこかで行き詰るのであります。他の学派がその突破口を開いてくれることもあるのです。例えば、そのクライアントを理解する際に、フロイト理論ではどうしても把握しきれないところがあるという場合、ユング理論がそこを埋め合わしてくれるということもあるわけであり、あるいは、むしろ、アドラーの言っていることの方がこの人に適しているということも生じるのであります。 

 だから経験を積むとさまざまな学派を学ぶことになるわけであります。 

 

 また、仕事を継続していると、壁にぶつかることもあれば、スランプに陥ることもあります。その際に、私の経験では、他の学派の知がそれを打破してくれることがあるのです。一つの学派に欠けている部分を他の学派が補ってくれることがあるのです。あるいは、一つの学派における盲点が、他の学派を学ぶことで見えてくるといったこともあるわけであります。 

 

 以上を踏まえて、私は学派というものへのこだわりが皆無であります。 

 反論する人もあると思います。一つの学派を信奉していないと、芯のない臨床家となり、プロフェッショナルとは言えないと考える方もおられるかもしれません。それなら、私は喜んでアマチュアでいたいと思います。 

 大切なことは、その臨床家がどの学派に属しているかではなく、その人が追及しているテーマの方が大切であります。どの学派の臨床家であれ、生涯追及したテーマというものが見られるのであります。個々の臨床家が取り組んできたテーマを学ぶ方が重要なのであり、学派の違いなんて二の次なのであります。 

 

 さて、何派のカウンセラーさんですかと問われて、彼女は非常に返答に窮したと言います。もし、私のクライアントで彼女のような経験をした場合には、「何でも派の先生だ」とでも言っていただいて構いません。 

 そもそも、どの臨床家も「自分は○○派のカウンセラーです」などと自称するわけではないように思います。第三者から「○○派のカウンセラーだ」と紹介されることの方が多いように思うのですが、いかがなものでしょう。日本では、割とユング派の人が自称する例が多いと感じています。私の偏見かもしれませんが。また、アカデミックな領域で仕事をしている人、教授とか学者とかいった人たちがそういうが学派に拘っているだけなのかもしれません。私にとってはどうでもいいことであります。 

 クライアントもそうだと私は思うのです。カウンセラーが属する学派など気にしないものであると思います。もし、「〇〇派」の先生だから受けるという人があるとすれば、その人は人間関係の問題を抱えているだろうと私は推測します。大抵のクライアントは、そのカウンセラーの人柄であるとか、思想に共鳴して、選ぶものであります。人を選ぶのであり、学派や流儀を選ぶものではない、と私は考えています。 

 加えて、○○派のカウンセラーのカウンセリングを受けるクライアントは〇〇派のクライアントになってしまうと私は考えています。フロイトにはフロイトに向いた患者さんが訪れ、ユングにはユング向きの患者さんが訪れるなどと言われるのですが、私はそれは半分しか正しくないと考えています。フロイトかユングかを選ぶ時点で、その人にはある種の傾向が出来上がっているのですが、実際に受けることによって、よりフロイト派のクライアントになり、ユング派のクライアントになるものだと私は思うのです。 

 それの何が問題になるかと言いますと、例えばAC(アダルトチルドレン)専門のカウンセラーがいます。そのカウンセラーがACだけを自分の専門にしてしまうと、クライアントは常にACでなければならなくなるわけであります。 

 そういう意味でも、カウンセラーがあまり一つの学派、流儀に固執しすぎてはいけないと私は思うのです。それだけでクライアントをかなり方向づけてしまうと思うのです。だから、一つの学派だけでやっていくことは望ましいことではないのであります。 

 

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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