<自己対話編―23> 平成24年7月9日
<対話>
C:先週は僕の外側の事柄でいろいろ動いて、僕はそれについていくのにたいへんだった。外側のことにどうしても目が向いてしまって、内面に目を向けられるかどうか、今は自信がない。でも、内面もいろいろ動いたということもどこかで感じている。(1)
T:両方が動いた週だったようですね。(2)
C:僕は一つ発見したんだ。内面が動く時は外側の事柄にも変化が生じているということを。しばしば同時進行で動くものではないかと思う。外側のことでバタバタしているけれど、内面においても動きが起きていて、昨日なんかはやたらと涙もろかった。夜、少しお酒を飲んだのだけれど、泣きそうになって仕方がなかった。(3)
T:どんなことが起きていたのでしょうか?(4)
C:なんか、悲しくなってきたんだ。振り返ると、ずっと独りで、それほど実りがあったわけでもないなあと、なんだか虚しくなってきて、それで。僕のこれまでの人生に後悔しているわけではないけれど、いや、正確に言えば、後悔しているものもいっぱいあるのだけれど、そういうことではなくて、それなりに悔いはないのだけれど、何て言うのか、もっと何かできなかったのかなあって思うんだ。バイトを始めることにしたんだ。それも偶然にも高槻で開業する直前まで働いていた店の店長に声をかけられたんだ。それで、これから夏本番になっていくし、働くためには体力も要るからっていうことで、少し筋力トレーニングを始めたんだ。そんなにハードなことはしないけれど。でも、そういうのをやっていると、中学生や高校生の時代にやっていた練習を思い出すんだ。どこか感覚的なものだけれど、そういうのを思い出すんだ。だから、ある意味では、僕はもう一回、人生のある地点からやり直そうとしているのかもしれないって、そう思うようになったんだ。(5)
T:それをすることはあなたにとってはどういうことなのだろう?(6)
C:いいことだと思っている。もう一度、やり直そうとしているんだ。開業以前の地点からやり直しをしているんだ。それに偶然にも、高槻の方も再スタートを切れそうな感じなんだ。これまで20時までという規則に縛られていたんだけれど、今日、僕が後のことをするなら何時まで居ても構わないって管理人さんから言われたんだ。それなら時間帯をもっと変えていこうって思ってね。新しいことも始めたいし、定休日も週二日に増やしたりしているし、いろいろ変化が起きている。サイトの方も、何とか問題を処理して、今日から復活したんだ。今週からバイトも始まる。僕の予定では、9月にはいろいろリニューアルしていそうなんだ。リニューアルと言っても、それは外側のことよりも、僕の内的な面が大きいのだけれど。(7)
T:大きく変わっていく兆しが見えてきて、今、その過度期のように思われている?(8)
C:そう。日々、何かが変わっていっている感じがしている。バイトの件もこんな風になるとは思っていなかった。僕は自分で言うのもおかしな話なんだけれど、不採用を経験したことがないんだ。それどころか、雇い主からこっちの方も手伝ってくれとか頼まれたりするんだ。今回、実は一件、面接を受けて、採用をもらったのだけれど、古巣の店長から引き抜かれたので、そっちは断ったんだ。そちらの方に対しては申し訳ないことをしたとは思う。でも、仕方がない。体は一つしかないんだから。それに、僕がこの年齢でもバイトの応募をして採用をもらったということだけで、僕は嬉しいんだ。僕はまだ雇ってもらえる人間なんだって思えるんだ。それだけ価値があるって、自分で思っても悪くないことだろうと思う。(9)
T:自分が必要とされる人間なんだ、それだけの価値があると思えるだけで、あなたは満足いくのですね。(10)
C:その店には迷惑をかけたけれどね。就職難って言われるけれど、ある程度、過去の職歴と重なる所があって、尚且つ、雇い主の条件をできるだけのむようにすれば、それなりに採用してもらえるところがあると思うんだ。どんな形であれ、採用されてから、自分の力を伸ばして、発揮していけるようになればいいんだ。最初から、こちらの要望を押し通そうとしない方がいいね。能力や勤務ぶりを見てもらえて、初めて、こちらの要望が通るというものではないだろうか。先週一週間でこの採用を決めたんだ。火曜日に面接して、木曜日に古巣の店長に引き抜かれて、金曜日には採用の知らせを受けて、それを断っているんだ。今週の金曜日に最初の勤務が決まっている。僕はそれがとても楽しみでならない。僕の場合、多少の条件が整っていたということもあるのだけれど、テキパキ動くと、短期間で決まるものなんだ。Yさんに教えてあげたいくらいだよ。(11)
T:彼女よりも早く決まったということになるんですね。(12)
C:そう。彼女は僕から見るとのんびりし過ぎているんだ。それで時間を浪費しているんだ。僕はコンビニとか百貨店、スーパーでのバイト歴があるので、今回もコンビニで探していた。スーパーや百貨店では深夜勤務がないからなんだ。それである日、自転車を整備して、自転車で十数件のコンビニを巡ったんだ。どこが募集しているとかいう情報を仕入れたんだ。これを半日でやった。そして、その日のうちに一件、応募したんだ。それが先ほどの採用を断った店だ。本当はもう二、三件申し込んでおこうとも思ったんだ。あいにく、その日は午後からは仕事が入っていたので、あんまり時間がなかったんだ。(13)
T:半日で集中的に、精力的に動いて決まったんですね。(14)
C:自分でもよくやってるなと思ったよ。こうして前に進んでいる自分が好きなんだ。ダラダラしてしまう自分の方がいやなんだ。僕のことをのんびり屋のように思う人もあるのだけれど、決してそんなことはないんだ。(15)
T:必要な時にはそうして動けるということなんですね。(16)
C:そう。僕はよく思うんだ。クライアントたちはしばしば自信がないなんて言う。自分には能力がないとかかんとかね。常に有能である必要はないんだって僕は思うね。必要な時に自分の能力が発揮できるという人の方がきっと生きやすいだろうなって思う。必要でない時は、能力を隠しておけばいいんだ。それは能力がないということとは意味が違うから。人はそれぞれ何かを持っているはずだって、僕は思うね。それを持っているっていうことを知ることも大事だし、必要でない時は発揮しなくてもいいということを受け入れることも大事だって思うんだ。Yさんがそういうことを分かってくれたらなあって思うよ。(17)
T:Yさんのことがとても気になるようですね。(18)
C:僕は時々、彼女をかわいそうだって思ってしまう。僕から見ると、何一つとして力を発揮していないように見えてしまうんだ。エネルギーを浪費してばかりいるような感じがしてしまうんだ。価値観が違うと言われればそれまでなんだけれど、僕はテレビにそんなにエネルギーを注がないんだ。テレビなんてほとんど見ない。見る時間がないんだ。その時間が勿体ないって感じてしまう。彼女は一生懸命テレビを見る。お笑い番組だ。お笑いも結構だとは思うし、見るなとも言わない。でも、お笑いはその場限りのものなんだ。僕から見るとっていうことだけれど。とても儚いんだ。僕も昔はお笑い番組をよく見ていたよ。父がそんなもの見て何が面白いのだとよく言っていたな。今は父の言うことが分かる。当時は、でも、お笑い番組が必要だった。半ば強迫的に見ていたな。小学校頃が一番ひどかったな。(19)
T:当時のあなたにはそれが必要だったのでしょう。(20)
C:そう思う。今から考えると、そう思う。芸人さんたちが集まってワイワイやっているだけの番組なんだけれど、そういうのが面白かった。僕にはそれができないからなんだ。でも、どこかでそういうことができたらという願望もあったのだろうな。みんなと一緒にワイワイやりたいっていう。それを仮想的に叶えていたんだと思う。(21)
T:あなたにも寂しい子供時代がある?(22)
C:子供のころは寂しかったね。孤独感というか、孤立感というか、あるいは見捨てられ感情と言おうか、そういうのが本当に強かった。でも、不思議なことに、独りでいたいという気持ちもけっこう強かったんだ。極くたまに友達とワイワイできて楽しい日を過ごす。それはそれで楽しい。でも、一線を越えてはいけないんだ。それを超えそうになると、僕は独りで居たくなる。それは今でもそうかもしれないな。楽しいひと時を過ごしたら、その後は独りでいたくなる。楽しいひと時は特別なことで、それは幻のようなものなんだ。現実に帰るために、独りになりたがるのかもしれない。(23)
T:楽しいことは非日常な出来事のように思われるのですね。(24)
C:信じられないという気持ちになってくるんだ。だから、僕は人生を楽しめない、生活を楽しめない人間なのだと思う。それではいけないと思っていたけれど、今はそれでいいじゃないかと思っている。クリニックに在籍していた頃、先生、これは上司のことなんだけれど、その先生が僕に言ったことがある。「クライアントからお金をいただいて、稼いで、それで美味しいものを食べて、それでいいんだよ」と。きっと、僕が本ばかり読んでいるので、それを見かねて先生は言ったのかもしれない。美味しいものを食べて、仲間と陽気に過ごして、それはそれで一つの生き方なんだろうけれど、当時から、僕はそれは真実の生き方ではないっていう感じがしていた。たまにはそういうこともできたらいいだろうっていう程度だね。享楽や贅沢にはほとんど興味がないんだ。僕は自分で清貧主義だって決めている。そうそう、これもYさんから言葉がキツイって言われたことの一つだ。主義っていうのは、~ismってことだけれど、それはその思想なり価値観なりを信奉しているということを表明しているだけのことなんだ。社会主義者というのは、社会主義の考え方を信じてますよと言っているだけのことなんだ。サルトルは実存主義者だと言われる。批評家たちはサルトルの言動から実存主義に反したことをしていると指摘したりするけれど、そんなの愚の骨頂なんだ。実存主義の思想を信奉している限り、その行為にそれと反するものがあったとしても、やはりサルトルは実存主義者なんだ。キリスト教主義、カトリシズムっていうことも同じだ。カトリックらしくない言動をしたとしても、その人がキリスト教の教義を信奉している限り、その人はキリスト教主義なんだ。僕の清貧主義は必要なものだけを買うというだけのことなんだ。無駄遣いしないようにするという思想を信奉しているだけのことなんだ。そして、買ったものは使う、使い切ってから次を買うということだ。何も買わないっていう考え方じゃないんだ。(25)
T:価値のあるものだけにお金を使うっていう考え方なんですね。(26)
C:そう。だから僕の生活を見て、これは贅沢品だ、清貧主義に反するなどと批判されても、それは批判する人が無知なだけなんだ。それが贅沢品だとしても、僕はそれが必要だからそれを所有しているだけのことなんだ。背広は4,5着あれば十分回していける。40や50着あるとすれば、それは余剰なんだ。それが贅沢なんだ。それも無駄な贅沢なんだ。そして、1着ダメになったら、新たに1着だけ買うというようにしたいんだ。本なんかもそうだ。まとめ買いをよくするので、まだ手を付けていない本が何冊もあるんだけれど、長い目で見れば、読んでいるんだ。買ってからかなりの年月が経ったとしてもね。(27)
T:買ったものは無駄にはしない。(28)
C:そういう生き方をしたいんだ。なんだか話が横道に逸れていっているな。ワイワイ騒ぐとかいうのは、その場だけのものなんだ。僕にとってはということなんだけれど。そして、そういうことが僕にとって本当に必要なものなんだろうかって考えると、必ずしもそうとは言えないなっていうことに気づいたんだ。ただ、孤独感が嫌だから芸人たちが騒ぐ番組を見ていただけだったなって思う。変に聞こえるかもしれないけれど、この孤独感もまた僕には必要なものなんだ。それがあるから人と関わろうという欲求が生まれるんだ。だから僕はお笑い番組で、せっかく僕の中にあるものをごまかしたくないだけなんだ。孤独感が今はとても活きているからなんだ。人間はやはり孤独なんだと思う。どこまで行っても独りだ。結婚しても尚、独りであることに変わりはないだろうなって思う。僕が独りだからこそ、僕は自分で生きていかなければならないし、自分が生きていくためには他の人たちと共存し、協力していかなければならない。お互いに自分の人生を助け合っていく。(29)
T:あなたはそういう生き方を目指している?(30)
C:そう。これも繰り返し主張したいことなんだけれど、僕がこういうことを述べていて、それで「お前は言っていることとやっていることとが違う」などという愚の骨頂の批判をする連中もおるのだ。これはさっきのサルトルの例と同じことなんだ。その人に僕の言動不一致が感じられたとしても、それはその人の自由だ。僕にはそれをどうこうすることもできないし、その人の望む通りの振る舞いをするつもりもない。僕がそれを目指し、それを信奉している限りにおいて、僕はやはり自分の主義を生きていることになるんだ。こんな話を聞いたことがある。ある人が医者から「タバコをやめなさい」と言われたそうなんだけれど、よく見ると、そう言う医者の指がニコチン焼けしていたっていう話なんだ。でも、そうだとしても、この医者が間違っているなんて言えないんだ。この医師は喫煙者だとしても、その患者に対して禁煙を勧める権利はあるし、医師としてその患者に助言しているだけのことなんだ。「タバコやめなさいと言うお前はどうやねん」などとイチャモンをつけても、通用しないんだ。この医師は医学的な観点から患者に忠告しているのであり、彼が医学を信奉している限りにおいて、彼はやはり医師なのだ。言動不一致があるとかいうことは、その医師をなんら貶めるものではないんだ。(31)
T:つまり、多くの人はそういう表面的な不一致だけを取り上げて批判しているというように見えるということでしょうか?(32)
C:そう。本質的な部分はまったく見ていないんだ。言ってることとやってることが違うとか言って批判するけれど、その人がどういうものを信奉しているか、そこは何も見ちゃいないんだ。僕もその手の批判を受けることがある。ネットなんかに書き込まれていたりするんだ。僕は気にしない。彼ら書き手が自分の愚かさを披露しているだけのことなんだ。僕は僕の信念を生きている限りにおいて、僕は一つの生き方をしているはずなんだ。個々の場面において、その信念と異なることをしたとしても、やはりそうなんだ。もし、一つの信念をあらゆる場面で貫き通したとしたら、恐らく、その人は限りなく不適応を起こすだろうね。菜食主義者が常に菜食主義でやっていくとすれば、その人は人と会食もできないだろうし、旅館なんかの料理にも手を付けられないだろうね。友達もそんな人とは一緒に食事したいとは思わないものじゃないだろうか。よく、動物愛護団体の人が、一方では動物を殺すなと主張しながら、他方では美味しそうにステーキを食べているとかって批判されるのを聞くけれど、それも同じことなんだ。動物愛護団体の人が常にそれを貫き通したとしたら、彼は害虫さえも駆除しない非衛生的な生活を送らなければならなくなるだろうけれど、それはしないんだ。これは矛盾のように見えるけれどそうではないんだ。その人は動物愛護の精神を信奉している限り、やはり動物愛護者なんだ。仲間と一緒にステーキを食しようと、ネズミやゴキブリを駆除しようと、構わないんだ。(33)
T:その人が内面において価値をおいているものに目を向けないといけないし、内面において抱えている信念とか主義とかいうものの方が、表に現れた行動よりも大切なことなんですね。(34)
C:そうなんだ。そこに対して盲目な人ほど、言動不一致があるなんて言って、意味のない批判をするんだ。(35)
T:あなたはそういう考えを持っているのですね。それでは、そろそろ時間になりましたので、今回はここまでにしておきましょう。(36)
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)