<Cとしての感想>
小学生時代のことを語ったんだなあという感じがしている。良かったような気もちもある。Tの存在感を出そうと、できるだけTの応答を増やしてみた。その際に、Tは僕が逃避しないように介入させようと決めていた。何度か、話題を転じそうになったけれど、その時はTになって、話を続けるように持って行った。昔のことを語るのは、今では苦しくはないけれど、やはり躊躇してしまう。どこかで躊躇しながら語っている自分を体験した。
<解説>
(1)Tに対する感情が語られる。Tをもう少しCにとって意味のある存在にしたいということである。Tが現実の他者であれば、これは信頼感の表明であり、陽性の感情転移の芽生えとして理解できるものである。
(2)Tが問いかける。明確化を求めている。
(3)Cははっきりと自分の要望を表明している。率直な表現であると感じられる。彼はTに深く関わってもらうことを望んでいる。Cには一人で二役こなすことに違和感を覚えていたようなところがある。これの解消に一役買ったのがかつてのクライアントである。空想上の友達と遊んでいたというクライアントである。この人のエピソードがCの転換に大きく役立っている。Cはそして一つの洞察を得ている。相手が現実の他者であれ空想上の人物であれ、その関係が大切なのだという洞察である。
(4)「人格的な関わり」というのはTの憶測に基づく表現であるが、Cの述べていることから大きく外れるものではない。確かにCが求めているのは人格的な部分なのだ。
(5)Cの自己表現はさらに進展する。Tが人格的な存在であり、人格的に関わり合うなら、この対話編は生きた人間同士の対話に匹敵するということであり、彼が最終的に望むのはこれである。生きた人間同士の語らいを提示したいということである。
(6)TはCの感情というか願望を反映している。いささか観点がズレているが、間違ってはいない。生きた人間同士の語らいができるなら、この対話編は真の対話になるだろうし、ネットで通じて、それを多くの人に知ってもらいたいという感情がCからは窺われるのだ。だから「あなたは生きた人間同士の対話をもっとしていきたいのですね」という部分を押さえる方が良かっただろう。
(7)Cのジレンマが語られる。彼が望むことを達成するには、Tが彼自身とは距離のある存在でなければならないと感じている。恐らくそれは完全には達成できないことだろうと思われる。そしてCもまた、具体的には何も考えられていないようである。ここに彼が悩む部分があるということは理解しておかなければならない。彼は対象を求めているのだ。そして現にその対象を生み出している。しかし、その対象は彼自身でもあり、究極的には対象として存在し得ない可能性をどこまでも秘めている。このジレンマである。
(8)TはCの考えを反映するに止めている。ここではそれでいい。もし、ここで彼にTが対象にはなり得ないということを仄めかすと、Cはひどく幻滅するだろうからだ。これは彼をして対話編を維持することを難しくしてしまうだろう。
(9)Cは一つの妥協点を見出している。それはTが一つの人格となるのではなく、一つの人格的な存在として「見立てる」ということである。Tが彼と別個の人格ではないが、そう見立てて関係を築こうという妥協である。
(10)Tが先走っている。「失った対象」という部分がそうである。その対象を失ったかどうかはCが自ら気づいていかなければならない所である。だから「あなたはあなたが望む対象ともう一度関わろうとしている」と言う方が良かったと思われる。「もう一度」ということで、それはかつて有ったものかもしれないし、失ってしまったものかもしれないし、そういう可能性を暗に秘めているし、Tとの関係を作り直そうというニュアンスにも聞こえるからである。
(11)ここでCは思い切ったことを述べている。内的な対象と関わることが大事であり、それができないから多くの人は虚無であり、外側の対象をひたすら求めなければならなくなるのだと述べているわけだ。思い切ったというのは、初めから内的な対象と彼が打ち出しているからである。ここでTは別個の人格であると同時に、彼の内的な対象関係であるということを明言しているわけである。彼はTが現実には存在しないことを知っている。それを踏まえているわけだ。そして、Tに求められているのは、彼の内的な対象として存在することであり、Tとの関わりにおいて、Cに内面的な豊かさをもたらす対象となることである。これがTに対するCの期待であり、彼の願望であることが窺われる。ところで、流れとして見ると、(10)での解釈、それが「失った対象」であるという解釈の後で、この発言が続いているわけである。ここでの発言は、Cをして自らの体験に目を逸らせるものである。彼は自身を語る代わりに、外側のものばかりを追求している人たちのことを語っている。Cが喪失に向かい合うことになりそうだったためかもしれない。
(12)ここでTは話題を逸らせてしまう。この逸脱はCの抵抗感によってもたらされたものである可能性が高い。と言うのは、先の(11)のCの発言から挑発的なニュアンスが感じられるからである。外側のものばかりを追求する人たちに対する軽蔑をどこかで感じていたのかもしれない。それでこの話を続けることに困難を覚えたのかもしれない。
(13)Tの質問に対して、従順なほど答えている。その代り、ここでは新しい糸口がもたらされることになった。外側のものを追い求める人というのは、かつてのC自身だという糸口である。内的な対象と関われないから外側を追求するという考えをしているわけであり、かつてはそうだったということから、かつてのCにはそのような内的な対象が欠けていたのだということを暗に示している。
(14)従って、ここでTは「あなたには内的に関わる対象がいなかったように思うのですね。それであなたも外側のものばかり追求する虚無感を体験されてきたのですね」と押さえておきたい所である。TはそれをCが自身との関わりの欠如として再定義している。
(15)Cは自分との関わりがなく、自分の内面を抜きにして外側のことと折り合いをつけようとしていたのだと語る。これはいささか観念的な表現である。理解できないことはないが、なぜ具体的な話にならないのかを考察してみる必要がある。
(16)Tは具体的な体験を語ってもらうように働きかけている。適切な方向だと思う。
(17)自分の内面を当てにできないから外側を信用してしまうということを語る。Tの働きかけは功を奏さない。Cは何か実例で挙げることが難しいような何かを語ろうとしているかのような印象を受ける。何が彼の抵抗感を生み出しているのかが疑問である。
(18)Tは具体的な体験を求めることを棚上げして、Cの感情に目を向ける。自分の中にあるものに価値をおくことができない、それで苦しかったということまで言及できていれば良かっただろうと思う。Cの苦しい部分への理解が及ぶほど、Cはそれを語っていくことができるようになる。
(19)CはTの応答に対してはぐらかす。外側の方が正しいと思われていたという部分にCが拘るからである。自分の中に価値のあるものがないという部分、そういう思いに対して、Cは語る術を知らないのかもしれない。
(20)「間違っていたのは誰だったのでしょう」とは上手い言い方である。TはCの外側の人たちに焦点を当てているわけである。その人たちを「間違っていた」と表現することで(実際、この言葉はC自身の言葉(19)から取られたものであるが)、Cの正当性を保証している。
(21)ここでようやく一つの方向が見えてくる。彼に対して無理解だった人たちのことで、Cがどれほど苦悩したかを語っているわけなのだが、それを受け入れざるを得ない(なぜなら外側の方が正しいと体験していたから)ので、自分でないものがたくさん彼の中に蓄積されることになったわけだ。Cはそれを飲み込まざるを得なかったのだ。どれほどの無力感を彼が味わったかが推測される。
(22)Tはここで再度具体的な体験で語るようにCに求める。
(23)案の定、Cにはそれができないでいる。Tがいささか早急ぎみになっていたのであるが、(22)で「あなたは自分でないものを自分の中に入れなければならなかったのですね。自分の中に他人のものばかり見てしまうので、自分と関わることが難しかったのではないでしょうか」と押さえておきたかった。Cは具体的な体験を語ることが困難な以上に、自分自身と関わることの困難さを抱えていたわけである。この困難は、彼が自分の中に良くないものしか見ることができないということから来ているわけだ。自分の中に悪い対象しか見えないから、そんな対象に関わるよりかは、初めから関わらないでいた方が安全なわけである。そうして自分と関わることのなかった彼は理解され許されなければならない。そういう過程を経て、初めて彼は具体的な話に入ることができるだろう。
(24)TはCに苦悩が多かっただろうことを理解しており、その理解を示そうとしている。
(25)C自身も話が観念的になりすぎることを望まないでいた(23)。そういう彼に苦悩がたくさんあっただろうとTが理解を示した(24)。ここで少しだけど、Cの体験が語られる。多少大雑把だけれど、彼の過去が語られる。水恐怖、先端恐怖の過去が示される。そして注射のエピソードである。これが具体的な体験として初めて語られるものである。
(26)周囲の解釈ではなくて、Cの体験を語ることを促す。
(27)注射のエピソードが語られる。このエピソードはCの抱える恐怖感をかなり忠実に表すものである。身体に穴を開けられる(自我境界の破壊)、外側の異物が送り込まれる(一方的に内在化させられる)、それが強制的になされる(無力で無抵抗である)、それに伴う恐怖感(自我が異質化される恐怖)といったものである。
(28)TはCの恐れることをそのまま返している。「それはあなたにはどうすることもできないことだったのですね」と応じれば、Cの自責感情が幾分中和するだろうし、彼の体験しているであろう異常意識からの脱却を踏み出すだろう。
(29)それから小学校2年生の時の心身症、3年生になってからの不登校のことが語られる。心身症から不登校への移行は、身体化から行動化への移行を意味しているわけであり、これはCの発達がそれだけ進んだことを意味する。注射のエピソードも、蕁麻疹、不登校のことも、問題は彼を正しく理解している人がいないということである。理解者の不在が、彼の内面において関わることのできる「良い対象」の欠如をもたらしているのであろう。
(30)Tは問題の本質を捉え損なっている。この発言の終わりに、「でも、誰もそれを理解してくれない。それであなたはいつも辛い思いをしてきたのですね」と付加してもよいだろう。つまり、理解者が彼にはいなかったということが苦悩の源泉であり、CはTにそういう理解者の役割を期待していると考えてよい。また、(29)では不登校やその後の空想、視線恐怖、幻聴をも語っているのであるが、Tはそれには触れず、2年生の蕁麻疹に焦点をあてている。
(31)Tが焦点を限定したので、Cはそれに応じるしかない。彼が語るのは周囲の人たちの視点がそのまま正しいものとして彼には強制されているということである。つまり、周囲が間違っているかもしれないのに、周囲が正しいことになってしまうという点である。
(32)Tのこの応答、「すごく簡単に片づけられた」というのは、それなりに的確であると思う。彼がいろんな症状を呈しているのに、周囲の人は結論を安易に出すけれど、疑問を感じていないようである。「片づけられた」ということはそういう周囲の動きに対して、Cが体験したことを表現できているように思う。
(33)Cの感情の高まりを感じる。前半は不満をぶつけている。しかし、それは長くは続かない。その代り、Cは今度は不登校の方に話を移している。Cはその部分を十分に表現したり、掘り下げてみたりといった作業に従事できないのだ。ある程度の所までは、それも入り口の辺りまではそれができるが、そこまで行くと話題を転換してしまうのだ。ここでTがどうするかは微妙なところである。一番いいのは、そういう感情を話しても大丈夫なのだと示すことであるが、場合によってはCの話題転換をそのまま許容する必要もある。Tは介入せずにCの話題転換に任せている。Cが何かを語ろうとしている限りそれで良いだろう。後半は不登校のエピソードである。一つの願望が語られる。それはその当時にきちんと「治療」をしておきたかったということだ。でも、それは達成されることなく、母親は彼に水をぶっかけた、それも彼がかつて恐れていた水を頭からぶっかけたわけだ。当時、彼にはそれで何もかもが終わったような感じとして体験されていたようだが、実際、何かが彼の中で終わった可能性が高い。
(34)TはCの話を促す。無闇に介入せず、Cの話題転換をそのまま許容して、Cに話すことを勧めているのだから、Tのこの応答はTの思考や方向性と矛盾するものではない。実際、Cは今回初めて小学校時代の辛い体験を話しているわけだから、それは十分に吐き出した方が良い。Tの解釈はおそらく受け入れられないだろうと思う。
(35)不登校当時の様子が描かれる。担任の先生の親切が彼には恐ろしい体験だったと語られる。つまり、不意に入り込まれることがどれほど怖いことであるか、母親も担任も理解していなかったのだ。こういう無理解のために、彼はまた一つ怖い思いを体験したということなのだ。
(36)ここでTは「それは怖かったね」と小学校3年生くらいの子供に話しかけるようにして表現しても良い。若干、距離を置いた応答のように聞こえる。
(37)不意に他者が彼の領域に入り込んできて、彼はあたかも石化した存在になったわけである。彼は無力にも、この他者が領域の外に出るまで無抵抗でいなければならないのだ。彼自身の存在を放棄してまでそうしなければならなかったのだということが窺われる。
(38)ここでも「早く出て行ってって」と言うと良かっただろう。Cの主体言葉で応じる方が望ましい。
(39)それでもCは自分の望んでいたことをきちんと語っている。自分の領域を守ってくれというのが、彼がもっとも望んでいたことであり、周囲に対して発信したかったこと、理解してもらいたかったことなのだ。
(40)Cの内面で体験されている事柄を表現している応答である。「それがあなたがみんなに理解してもらいたいことだったのですね」と、Cの願望に焦点を当てたいところである。Tの応答は、Cの望んでいたことではなく、Cが恐れていることの方へ注意を向けてしまっている。
(41)案の定、Cは怖いということを表現する。しかし、恐怖感は表現することがCには難しい。だからここで再び話題転換が生じている。給食が食べられなくなるという現象が彼には生じていたことが語られる。これはいささかヒステリーの様相を帯びている。彼自身は食べたいと思っているのに、喉がつっかえるような感じがして、何も通らないということである。周囲の人はそういうことが起きているということに思い至らないし、C自身、自分を語る言葉を有していないのだ。自分を語る言葉を有していないがために、彼はこのような形で述べなければならなくなっているのだ。
(42)Tの応答は間違っているわけではない。しかし、Cが自分の言葉を獲得するために、Cの言葉として代弁することも必要である。「なんでそんな思い込みを一方的にするの、本当は違うのにどうして分からないの」というように応答したいところである。
(43)拒食の体験は小学校3年生以前だと言う。だから不登校よりも前の時期だ。恐らく、蕁麻疹から不登校への過度期に生じたものだろう。この拒食は身体化でもあり、行動化でもあり、その両者の特色を有しているからである。それから言葉が発せられなくなるという現象が生じたことが語られる。これはもっと後のこと、3年生以後のことであることが窺われる。これはいわば語ることの拒絶なのである。はっきりとした関わりの拒絶のニュアンスが感じられるので、不登校よりも後のはずなのだ。
(44)周囲の人の一方的な思い込みを取り上げている。こういう思い込みが彼を傷つけ、彼という人間を作っていってしまうわけだ。彼は本来的な彼ではない人間になっていくわけである。9回目で、彼は映画「ゴッドファーザー」や「エクソシスト」で体感した恐怖を述べているが、それと通じるものである。だから「周囲が勝手に一方的にこうだと思い込んで、あなたはそれに従わざるを得ないような、そして自分自身でなくなっていくような、そういう恐怖を経験してきたのですね」と答えても良い。
(45)言葉が発せなくなるということに関してのエピソードが続く。厳しい先生がいたらしく、その先生とCとの攻防戦のようなものが展開されていたようである。立ちっぱなしで一週間過ごしたこともあると言う。彼はあくまでも抵抗していたように思う。理解しない人たちに対する宣戦であるように思う。当時、彼はそういう形で周囲と戦い、自己を主張していたわけである。恥ずかしいという感情はあくまでも二次的なものではないかと思われる。
(46)TはCの一エピソードに心を奪われてしまっている。むしろ、「あなたは屈したくなかったのですね」と応じて良かっただろう。
(47)恐怖症、蕁麻疹、拒食、不登校、失声と一連の「問題」が語られ、ここで一段落つく感じである。「それを周囲にどう伝えてよいか分からなかった」というのが、この発言での要である。なぜなら、彼は周囲に上手く伝えられない自分を良くない存在として捉えている可能性があるからであり、伝わらないということが彼にとって最大の苦しみであったということがこれまでの話から理解できるからである。
(48)Tはその部分を理解できている。応答として望ましい部分を含んでいる。言い換えると、誰もCが発している信号を掴んでいないということを述べているからである。もし違った言い方をするなら「あなたは普通のやり方では伝えられないので、症状を出してまで伝える必要があったのですね。それでも、あなたが伝えようとしたことは伝わらなかったのですね」と述べてもよい。フロイトの症例なんかの話が出ているので、こういう表現はCには伝わるだろうと思われる。
(49)周囲を責める発言が見られる。Tの理解が得られると、Cはそういう感情を表明することが少しできるようである。しかしながら、ここでもそれは長く続かず、話題転換していく。夕食時間のエピソードである。周囲の人たちの話である点は変わらないが、より身近な他者へと視点が移って行っている。家族たちのことである。医者や先生のことを言う以上に、これは言いにくい話題ではないかと思う。辛い部分へと少しずつ近づいていっていることが窺われる。
(50)その時のCの置かれている状態を表現しているTの応答である。
(51)その時のCが体験していたことを、そのまま素直に表現できているように思う。「僕の居場所がない」というのは、「僕にとって安全な隠れ場所がない」という意味として理解しなければならない。
(52)なかなかいい応答である。「守られている感じがしない」というのは、Cがいかに安全でいられなかったか、脅威の中に留まり続けざるを得なかったかを理解しているからである。
(53)夕食に向かうことは「刑場に向かう気分」だったと語る。こういう比喩的な表現は、かなり的確にCの感情を表している。そしてこの気分についての話が展開するかというと、そうならない。やはり話題転換が生じている。こうして、彼の人生においての最初の苦しい時期のことが一通り語り終わる。
(54)ここでTはCの話題転換に触れることもできる。「あなたは何かエピソードを話して、辛い部分に触れそうになると、次の話題に移ってしまいますね」ということを伝えてもよい。そして、「それだけそこに触れるということが怖いように思われるのでしょうね」と押さえておいて、「そこに触れてもきっと大丈夫ですよ」ということを伝えたいところである。
(55)兄は彼が普通ではないと気づいていたと言う。その後、Cは「だから、僕はもういいんだって思っていた」とはどういうことであろう。この言葉はどういうことを表しているだろうか。彼は自分を表現することを断念している。この断念が何から生じたものか、周囲が何をしたからそうなったのかを考える必要がある。もちろん、周囲には何をしても伝わらないのだという絶望感があるというのも確かだ。その後に続く彼の言葉に耳を傾けてみよう。「みんながおかしいと言うのであれば、僕はおかしいのだろう。普通ではないと言うのだから、普通ではないのだろう。問題児だって言うのだから、きっと問題児だったのだろう」と、この発言から、彼と周囲との間にどういうことが行われていたかを推測できないだろうか。彼が言おうとしているのは、彼は「一つの異常」であり、「一つの症例」であり、「一つの問題」に過ぎないということである。一人の人間となることはあり得なかったということではないだろうか。そして人間から脱落し、あるいは人間となることを断念し、一症例、一問題といった概念に成り下がったということではないだろうか。だから、彼は自分がいつ捨てられてもおかしくないと体験しているのだ。旅行のエピソードはまさに彼のそうした恐れと心的状態を示しているのではないだろうか。
(56)Tの応答は、先のCの発言の一部、それも表面的な一部しか取り上げられていない。むしろ、「あなたは自分がいつ捨てられてもおかしくないくらいに思われていたのですね。それくらい人間としての価値が感じられなかったのですね」ということを伝えても良かっただろうと思う。こういう応答に対して、Cは耐えることができるだろうと思われる。それだけCにはその時代を振り返り、語りなおした過去があるからである。
(57)今でも旅行が辛いと思ってしまうという一つの洞察があるが、これはそれほど重要なものではない。Cは「自分がいつ捨てられてもおかしくない人間だ」という恐れには触れずにいる。
(58)時間が来て終了。
全体のやりとりは大きく二つに分けられる。
まず、Cが対象を生み出そうとしているということである。これにまつわる話が展開されていく。(1)~(24)までがそれである。ここでは具体的なエピソードが語られず、観念的な話がメインであることが特徴的である。何か触れようとして触れられないものがある感じがする。
その段階を経て、彼は一つのエピソードを語り始める。これによって、後はいくつものエピソードが話題転換の度に語られる。これは(25)以降の部分である。
いくつもの「問題行動」が彼には見られたが、そこには一定のプロセスが見られる。最初は水とか刃物とか漠然とした恐怖症だった。これは漠然とした不安や恐れが容易に特定の対象と結びつく段階である。様々なものが恐怖症の対象になったことが窺われる。
はっきり年代が分かるもので最初のものが小学校2年生の蕁麻疹である。心身症である。これは身体化である。続く拒食は身体化と行動化の両面を有しているものだった。3年生の不登校は明らかな行動化である。身体的な訴えがなされていたようではないからである。
その後、失声が出る。これはさらに自己表示のニュアンスが感じられる。行動化であると同時に宣戦布告しているようにも見える。
今回は十分に語られなかったが、小4頃から空想に耽るようになる。その空想は彼の問題を顕在化させるのを抑止してきた面もある。そして、大学生頃、視線恐怖や幻聴を体験する。従って、漠然とした不安の段階―身体化段階―行動化段階―精神化段階の流れを汲んでいることが見えてくる。行動化と精神化の間に潜伏期を挟んでいるので、彼には二つの時期のように見えるかもしれないが、一連のものとして捉える必要がある。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)