<Cとしての感想>
旅行のことをもっと語るつもりだったのに、結果的にそうはならなかった。初めに厳密に計画して進めるよりも、こういう形の方が意外な展開が見られて面白いと思った。
分裂病、精神病への恐れというのは昔から抱えていて、それが語れたことは良かったと思う。恐ろしいことは語ることができないからであり、語れるということは、その恐れを克服している、もしくは克服途上にあるということができるからだ。語り終えて、非常に気分が穏やかになっている僕自身を体験している。
<解説>
(1)前回、旅行の体験をもっと書いていこうと述べていたCだったが、今回、その気が失せると述べている。何か抵抗感があるようだ。この抵抗に対して、CはそれがYさんの事柄に触れてしまうからだという処理をしている。もしかすると、「自分が苦しくなるからできない」という感情を「他の人が苦しむことになるからできない」という形にすり替えているのかもしれなくて、これがCの自我防衛のパターンであるのかもしれない。
(2)TはCの述べるところをそのまま受け入れている。「恐れている」とCの体験している感情に触れている。
(3)Cは文章で書いたものがCの意図とは別の読まれ方をされてしまうということを恐れている。誤解されるのを恐れているということである。それに対して、Cは自分の文章力の拙さを挙げているが、これもまた一つの防衛である。誤解された時、つまり違った読まれ方をした時にCが体験する感情があるはずである。そこにCは目を当てることができないようだ。そして、「誰一人として人を傷つける目的で書いていない」のだと宣言している。このように宣言する必要があるということは何を意味するだろうか。そういう形で宣言しなければ伝わらないとCは信じているのではないだろうか。普通に言っただけでは、それが伝わらなくて、更なる誤解を生みだすと恐れているのではないだろうか。
(4)Tの応答であるが、ここはもう少し言葉を補いたいところである。「あなたは誰をも傷つけようとはしない。でも、それとは違うことが起きてしまって、あなたが傷ついているのですね」と述べたいところである。この応答だと、Cは誤解されて自分が傷ついているということに目を向けることができる。
(5)先ほどのTの応答が不十分だったために、Cは自分の傷つきに十分目を向けることができていない。自分が傷ついたと言う代わりに、人間は相互に傷つけあってしまうものだという話になっている。そして、相互に傷つけあうという文脈の中で、Cは自分の傷つきを語ることができている。しかし、自分の傷つきの方ではなく、他人を傷つけないためには物を言わない方が安全だという方向へ話が展開する。彼は自分が物言わぬ子供だと語る。
(6)Tの応答は、この時のCの感情を反射するものである。ここではむしろ、「あなたは口をつぐんでまでして、人を傷つけたくはなかったのですね」とか、「人を傷つけてしまうくらいなら、自分が我慢する方がましだって思って、生きてきたのですね」といった対応も可能である。これらの応答はCが、過去において、どれだけ無理をしてきたかということに焦点を当てる可能性を開くものである。
(7)Cは物言わぬ子供だったので、何を考えているか分からんとか変な奴と思われたりしたと話している。
(8)Tのこの応答は、C自身ではなく、Cを誤解した人たちの方へ焦点を当てることになってしまう。何度も言うように、ここではCとTは同一人物なのであり、Tが無意識的にCと共謀してしまっているかのような応答をしてしまうことが生じる。実際には、「そんな風に思われたり表明されたりして、どんな感じがしたの?」とか尋ねるだろうし、その方が自然な流れである。
(9)先のTの応答が不適格だったので、Cは周囲の人の事柄を中心に据えて話を展開してしまっている。その一方で、Cは彼らが自分に気を使う必要なんてないんだと述べる。彼らは悪意を持ってしているのではなく、だから攻撃しているのではないと述べている。人がこういうことを言いたくなる感情とはどのようなものだろうか。例えば、本当は愛して欲しいのに、思うように愛されないとかいう場合、自分が愛されなかったという部分を見るよりかは、あの人は別に私を愛する義務があるわけでもないからといった処理の仕方をするかもしれないし、あの人が愛さなくても別に悪意があってそうしたわけではないのだからと言って、愛してくれなかった相手に対しての怒りを処理するかもしれない。これは合理化ということである。Cもそういうことをしている可能性がある。
(10)ここで再びTはCと共謀してしまっている。Yさんの話を持ってきてしまっているわけである。(9)の発言から、Tは次のように言うこともできるだろう。「あなたは自分が傷ついた時にはそのように考えることにしているのですね。そういう処理をして、それからどうなるのだろう」とか、「あなたは自分が傷ついても、彼らが悪意でそれをしているのではない、攻撃しているのではないっていうことを信じたかったのですね」といった応答である。
(11)TがYさんのことへ話題を振ったので、Cはそれに応える形になっている。ここではCがYという女性をどのように見ているかが語られている。最後に「Yさんがこれを読んで非難されていると受け取らないだろうか」と不安を語る。Cが不安や恐れといった感情を表現する時は注意が必要である。それを丁寧に取り上げないと、Cは防衛するからである。
(12)TがCの恐れを受け入れているので、(11)に対しては良い応答である。また、「彼女でさえ、あなたを非難するようになるのではないかって、今も心配なんですね」といった受け答えも可能である。この「(こうしている)今も」の部分が大切なのである。日頃体験している不安、過去に体験した不安などを語ることはできても、今ここでの不安に対してはCはなかなか目を向けることが困難なように思われるからである。
(13)再びCの防衛が始まっている。彼女は繊細で、彼が一定不変でないということが彼女を苦しめるということを述べているのであるが、焦点がYの方へ移ってしまっている。そして、Cの不安は「今、ここ」での不安から離れてしまっている。
(14)TはCの話の流れについていく。焦点をCの方に向けなおそうとしている。
(15)しかし、Cの抵抗は続く。彼自身ではなく、Yに焦点化された話が展開する。Yが苦しまないように、彼が何をしているかということが語られているわけであるが、彼自身のこと、特に内面的な事柄に関しては述べられない。
(16)Cも同様にYの雰囲気を察知するから、触れてきた時には拒まないと言った反応をするわけである。しかし、それよりも、TはC自身に目を向けるような働きかけをする必要があるだろう。「あなたはYさんの表情や雰囲気から察して、彼女を傷つけないように気を配っているのですね」といった応答でもいいだろうし、個人的には「あなたのその気遣いはきちんと彼女に伝わっている感じですか?」と尋ねたい気持ちもある。
(17)Cは自分の傾向を精神分裂病の特徴と重ねあわしている。なぜ、ここで分裂病のことが出てきたのかということは考察に値する。今回の対話編では、ここで展開が大きく変わる。(17)は転回点なのである。正確に述べれば、(1)から(16)までのやりとりにおいて、彼の中で分裂病イメージが刺激されて、(17)でそれが表出されたものではないかと思われる。
(18)Tの応答はそれでいい。ただ、「あなたにとって、分裂病って、どんな病気だと思うのでしょうか」ということを付加したいところである。Cの分裂病観を知らなければ、これまでの対話の何が分裂病イメージを表出させたのかが分からないからである。
(19)Cの反応は小刻みに変化する。まず、分裂病が怖かったということ、そして、ある人からいつか分裂病になると予言されたこと、そういう彼にとって恐ろしい体験が語られる。しかし、次に、彼はその恐怖感を打ち消すような話を持ち出している。今では怖くないし、分裂病になればもっと心の病を理解できるだろうと述べている。最後に、分裂病ではなく統合失調症と言わなければならないという名称のことに触れている。Cは恐ろしい感情から徐々に遠ざかろうとしているということが分かる。
(20)Tのこの応答は望ましいものだ。Cは分裂病になるだろうと予言された人間なのだ。その彼が現実には分裂病にならずにいるわけだ。その疑問をTは率直に取り上げている。
(21)ここでCの分裂病観が提示されることになる。彼にとって、分裂病とは、外側のものを一方的に内側に飲み込まされる現象なのだということになる。「一方的に」というのは、恐らく、「強制的に」という意味合いでもあるのだろう。この分裂病観が理解できると、今回の対話において、(1)から(16)までの話において、何が分裂病イメージを刺激したのかが理解できる。人は彼のことを正しく理解し損ねて、誤解してしまう。この誤解は彼らの側に生じたものである。でも、彼はその誤解が一方的に飲み込まされるような体験をしてきたのではないかと思われる。飲み込まされたものは、咀嚼し、彼の中で消化しなくてはならない。それは語り直し、見つめ直しという作業を通じてやっていこうとしているわけである。そして、何が自分であり、何が飲み込まされたものなのかを区別しようということである。
(22)Tの応答であるが、Cの苦しみに焦点を当てようとしている点で望ましい。
(23)Cは自分の苦しみを語り始めるが、すぐにこの傾向の美点を持ち出している。苦しいことをそのまま語れないというのがCの傾向の一つであるようだ。一方、この美点ということであるが、これも確かに真実なのであろう。ある種の小説家の作品を、彼は「痛い」ものとして体験しているのであるが、こういうのは優れた共感能力でもあるし、分裂病者のするような体験でもある。
(24)Tの応答。Cの言う「痛い」に焦点を当てている。もしくは、「そういう敏感さや共感能力はあなたにとって長所であり、武器でもあるんですね」などと応じることもできるだろう。(30)において、Tはこうした応答をようやく手がけている。彼の傾向を病気と捉えない観点が、ここではCを救うことになると思われる。
(25)小説の主人公たちが身近に感じられたりするということをCは話す。主人公たちは彼の外側に属する人物であるが、そういう人たちと一体化する、同一化する能力に優れているということだ。これは一方では、相手と融合関係に陥りやすいということでもあるが、場面によっては優れた長所にもなり得るということではないだろうか。
(26)Tが話を方向づけてしまっている。その方向自体は間違ったものとは言えないが、いささか直接的すぎる。ここでは「彼らが自分ととても近い存在(似ている存在)のように思われるのですね」といった程度のもので良いだろう。
(27)再度、Cは自分の恐れを語ろうとする。小学生の頃や大学生の頃というのは、彼によれば、彼がもっとも苦しい時代のことである。この苦しい時代においては、彼の周囲には恐ろしいものが常に漂っていたように体験されているわけである。彼が恐れを語れないことの一つの理由がここで語られている。何か恐ろしいものが漂っているのだけれど、それが何なのかを明確に述べることができないのだということである
(28)Tの応答。特に問題となるような点はないだろう。
(29)やはり、恐れは語られない。何か望ましくないものとしか述べられない。一方、カウンセリングではしばしばこの傾向が役に立っているということを話す。Cはいつの間にかクライアントと同一視するようである。彼の中に自然に生じたことが、しばしばクライアントに驚かれるという体験をするということである。こういう敏感さや、同一視する能力は、カウンセリングには必要なものであり、彼は自分の「病理」を望ましい形で活用しているということが窺われる。
(30)TもまたCの恐れには触れずにいる。その代り、TはCにとって望ましい方を積極的に取り上げているという感じがしないでもない。
(31)Tが望ましい方を取り上げたのに対して、Cは望ましくない方を取り上げている。敏感さと鈍感さが同居するという分裂病的傾向に対して、今度は鈍感になってしまう方が取り上げられている。こういう時、彼はまったく感情移入ができないと述べている。そういう時、クライアントは彼を非難することもあるようだが、彼自身はクライアントたちを責めるつもりはなく、自分の未解決な問題のためだというように理解している。これもまた「人を傷つけたくはないし、それをするくらいなら自分の方を変えよう」という思考と同種のものである。
(32)Tの応答であるが、これはこれで望ましいものでもある。Cが自分の弱点をも理解しようとしているというのは先の発言からも窺われることである。一方、Cが相手に対して心を閉ざしてしまうのはどういう時であるかを聞いてみてもいいだろう。もう一度、Cの恐れに焦点を当てる機会が得られるかもしれない。
(33)さて、Cはクライアントから距離を取ってしまうということを自分でも分かっているようである。問題点の一つは、Cはどういうタイミングで、どういう時に、クライアントとの同一視を離れるのかということである。そこには、きっと彼にとって危険だと思われる何かがあるはずである。それが何なのかはよく分からないが、彼をして発狂させるような何かなのである。そして、彼はそのようにしてしまった自分を責めるのである。だから彼は「自分が発狂してまでも、そのままクライアントに同一視続けるべきであった」と考えているのだ。その後の、「自分が発狂した方が、彼らにとっても本望だろうと思う」というのは、彼がいかに激しい敵意に直面したかを物語るものではないだろうか。
(34)「自分を責めている」というのは確かに正しい。でも、「あなたは苦しくなったり、危険を感じたり、怖くなったりして、どうしても自分を守る必要があったのですね」という点を押さえたい所である。
(35)自責ということに話が移ってしまっている。Tの発言を「自責は良くないことだ」というように受け取ったとすれば、この反応は筋が通る。これはつまり、(34)の応答がCの感情からずれていたということを示すものである。
(36)なんとかTはCについていこうとしている。「懺悔」という言葉はCが発したものではないけれど、Cの感情と一致する部分があったのだろう。それが次の反応に現れている。
(37)彼は自分が許されていると体験していないのである。この部分が「懺悔」と重なるのである。「懺悔」とは罪を償い、許しを得て、社会の一員に復帰する行為であるからである。しかし、不思議なことに、彼は自分が許されているとは体験していないのに、彼と会う人の何人かは彼から許されているように体験しているのだ。これはどういうことであろうか。これに関しては(39)でC自身が語ることになる。それよりも、ここで彼はもっと重要なことを語っている。彼が本当に求めているのは、自分が許されることなのだということである。重要なのは彼のこの願望の方である。彼が本当に望んでいる事柄がここに至ってようやく表現されたわけである。
(38)TはCの願望を一部明確化しようとしている。間違っているとは思えない。あるいは、「一度でもいいから、あなたは自分が許されるという体験をしたいのですね」と応答してもいいだろう。
(39)先ほどの現象について、Cの見解が述べられる。彼によると、「下には下がいるということを知って、みんな安心するから」じゃないかということになる。これは見方を変えると、クライアント以上に罪意識に苛まれてきた人の姿を、クライアントはCの中に見出したり、感じ取ったりするからかもしれない。もし、そうだとすれば、話の展開として次に来るのは、Cの抱えている罪悪感であるはずなのだ。
(40)Tはこの機会を逃している。再びCとの共謀が働いている。Tは、Cにではなく、そうしたクライアントに対するCの感情に焦点を当ててしまっている。「クライアントは自分と同じように苦しんできた人の姿をあなたに見出して、それが彼らの安心感につながっているということでしょうか」といった応答をしたいところである。
(41)Cの話は多岐に渡る。一回の面接で心身ともに消耗しきってしまうということ、傷つきやすい人に対しては特にそうだと語る。ここで突然、他の臨床家のことが話題に上がる。女性の臨床家のようだが、その人は一日に10人のカウンセリングをするらしい。彼は自分はそれができないという。次のクライアントに移る前に、彼は自分自身に戻らなくてはいけないということであり、そこまで同一視して、感情移入しているということである。きっと、この臨床家は一人一人のクライアントに対して、そこまでのことをしていないだろうというニュアンスが感じられる。だから、「僕はとても彼女のようにはできない」と述べているのと同時に、「彼女はとても僕のようにはできない」、なぜなら「僕はそこまでクライアントに感情移入するからだ」ということを述べたくなったのかもしれない。しかし、その部分は明確に語られているわけではなく、何か仄めかすような形で語られているような印象を受ける。
(42)Tの応答は一応無難な反射である。「あなたは、一時的にでも自分を喪失してまで、クライアントと向き合うのですね。そこまでして援助しようとしているのですね。だから一日に10人のクライアントと会うと豪語するような臨床家はとても信用できないという思いに駆られているのかもしれませんね」と伝えることもできるだろう。彼は本当に自分の言いたかったことに気づくかもしれない。
(43)彼の話では、クライアントとの同一視が起きるとき、彼には関係が良くなったように、クライアントが良くなっていくように体験されている。これは事実だろうと思われる。こういう同一視をしてもらえるということは、ある種の人に対してはとても援助になるし、その人たちにはそういう体験が欠けており、絶対的に必要であるという場合もあるからだ。
(44)Tの、やはり無難な応答である。「それを必要としている人に対しては、あなたはとても的確にそれを与えることができるのですね」というように指摘してもいいだろう。
(45)ここでCは新たな問題を提起している。彼は、いわば、かつてほど敏感ではなくなってきたと述べているのである。それを、自分が硬直したと表現している。彼はそれを「悪化」と捉えている。しかしながら、これは一概に悪化とは言えない。ある意味では、同一視傾向から、相手と容易に融合する関係から抜け出始めたということなのかもしれない。彼から敏感さを奪う何かが、彼と会う人の方にあるのかもしれない。その辺りは何とも言えないというのが実情である。
(46)Tの応答。Cが酒を飲み始めたということを取り上げている。確かに、再飲酒の話は唐突な印象がある。
(47)彼は飲酒を「悪」だと捉えていたわけである。しかし、「悪」を排斥すればするほど、その「悪」は影のように伸びていくという。そして、彼は再び「悪」と関わらなければならないと感じているようである。その「悪」の一つがお酒なのだということなのだ。だから、彼が取り戻したいのは、飲酒の習慣ではなくて、かつての敏感で心が動いていた時代の彼自身なのだ。彼の言うとおり、双方が統合されていくことが望ましいのではあるが、それはまだまだ達成されないようにCには体験されている。ここで、再びYの話が出る。彼が再飲酒したことでYが動揺したということである。Yを動揺させたことに対して、彼はやはり罪悪感を抱えている。それは彼女に余計な負担をかけてしまっているという感情から窺われることである。そして、酒を飲んでいようと断酒していようと、同じ人間なんだということをYに分かってほしいと願っているのだ。(13)でのCの発言と、この部分とがリンクするわけである。
(48)Tの応答。あまり望ましいものではないと思う。この応答では、「Yが混乱するのは、あなたがその背景をきちんと知らせていないからだ」という叱責のニュアンスが生まれているからである。「Yを混乱させるつもりはなかったし、そこに至った背景を彼女が分かってくれたらどれだけいいだろうかと思うのですね」といった表現の方がいいだろう。そして、時間が来て、終了となる。
この回は、Cが自分の恐れに対して目を背けようとする動きが目立つ。自分を防衛しようという動きである。この防衛が頻繁にみられるために、全体として散漫な印象を残している。
現実のカウンセリングでも、防衛が強い人の場合、その面接は非常に散漫になるか、非常に理路整然、首尾一貫し過ぎるものになる。会話としての自然な広がり方や自然なまとまり方をしないというのが特徴的である。
Cが防衛的であるとしても、傷つけたり傷つけられたりという関係が通奏低音のように響く。そして、ここでいう傷つけあいというのは、無意図的な行為として現れてくるものであるという点にも注目しなければならない。意図的に傷つけあう関係よりもはるかに、無意図的な傷つけあい関係にCは困惑を体験してきたようである。そして、相手に傷つけられても耐え、相手を傷つけないために無理をするというのが彼のパターンである。
彼がそういう傷つけあい関係から身を守る手段として、自分と相手との境界をしっかり見極めるということをしてきたようである。それをすることに彼は困難を感じていたようであり、それができないがために感情移入しすぎたり、同一視しすぎたりするということである。
しかし、彼のこうした傾向は仕事をするうえでは非常に役立っていることもあり、少なくとも否定的にはそれを捉えていないようである。
いずれにしても、彼が何を恐れ、どういうことに危険を感じているのか、誰から傷つけられ、どういうことで傷ついたのか、そういった点は十分に語られずに終わっている。この時点での彼には、まだそこまで目を向けることができないでいるということが窺われる。Tとしては、無理矢理に目を向けさせることは慎まなければならないだろうが、Cがそこで恐れていたということや傷ついたということは、その都度、押さえておきたいところである。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)