7月2日:躁うつ気質
夜勤明けで、さっそくこれを書いている。夜勤の間にいろんなことを考えた。もちろん本業に関する事柄である。それだけ副業の方は集中していないということなのだけれど、なぜか今日はいろんなアイデアが浮かんだ。僕の中で生じたアイデアは実現させてみたい。
ところで、こういう時、僕は自分が「躁うつ気質」を有しているなと実感する。こんなふうにいろんなアイデアが浮かんだりするのは、躁的な時だ。「うつ」の時はそういうことはさっぱりだ。現在を乗り切ることにしか意識が向かない。
アイデアというのは、例えばワークショップに関することだったり、インターネットを使って通信指導というか通信教育みたいなことを考えてみたり、電子書籍に関してのものだったりだ。次から次に、こんなことをやってみようとか、こんな造りでいこうとか、そんなことが浮かんでくる。そのいくつかは書きとめている。それでも書く方が追いつかない。
ちなみに、「躁うつ気質」は「躁うつ病」ではない。気質そのものは病気ではないのだ。それは性格が病気ではないのと同じことだ。だから僕が「躁的」になっているからと言って、それは「躁病」に罹っているということを意味しない。観念が奔逸しているわけでもないし、アイデンティティが拡散しているわけでもないし、同調性を喪失しているわけでもない。
そして、僕が「躁的」な時は、とにかくやたらと元気だ。寝なくても大丈夫というありさまだ。いささかよろしくないのは、少し自信過剰になってしまうという点だ。まあ、でも普段の僕からすると、僕は少々自信過剰くらいの方がいいような気もする。
ところで、これは述べておいた方がいいかもしれない。人にはそれぞれ気質というものがある。他の呼び方をしてもいいけれど、とにかくその人が持って生まれた傾向というものがあるのだ。さっきも述べたように、気質そのものは「病気」ではない。ただ、「躁うつ」気質の人が病む時は、やはり「躁うつ病」になる確率がとても高い。その代り、その他の「心の病気」になる確率は低い。気質は自分でもどうすることもできないものだ。従って、気質を変えるのではなく、人は自分がどんな気質を持っているかを知っておくことの方が大事なのだ。
「うつ病」の人と面接していると、びっくりされることがある。「なんでそこまで分かるのですか」とおっしゃられるのだ。僕からするとなんてことはない。僕も同じものを持っているから、それが自分のことのように分かるというだけのことだ。それを伝えてみると、相手がそのものずばりを言い当てられたように体験されるようだ。僕が「うつ病」が好きなのは、自分と親和性があるからだとも思う。
一方で、「ヒステリー性格(気質)」の人とはなかなか分かり合えない。その人たちは、いわば僕からかなりかけ離れているように感じられるのだ。だから、僕のカウンセリングを受けて、僕を批判する人たちは大抵「ヒステリー性格」の人だということが僕には分かっている。彼らのことも理解したいと思い、そう努めているのだが、なかなかうまくいかないと感じている。
とりとめもなく書いているな。ひょっとしたら観念奔逸すれすれのところかもしれない。一つだけ確実に分かっていることは、今はこんな調子だけれど、これが永続しないということだけだ。そのうち、この分のしわ寄せがどっと押し寄せてくるだろう。それまで、この状態を堪能しておこう。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)