7月1日:生と死の反義 

7月1日:生と死の反義 

 

 昨夜から今朝にかけての夜勤はかなり堪えた。決して忙しくはなかったものの、フラフラしてどうにもならなかった。勤務終了後、帰宅して少しだけ眠る。それから本業の方に向かう。20時まで面接と事務雑用をこなす。腹が減って、少しだけ食事を取る。その後、喫茶店に入って、これを書いている。これからまた夜勤だ。夜勤明け、恐らく、そのまま高槻に出て、今日並びにこの数日間の仕事の記録を書いて過ごす。その他の雑務もこなしておく予定だ。 

 予定はいいけれど、一体どこまでできるかは不明だ。また、明日は禁煙トレーニングの日だ。何時から始めようかと今から考えている。酒は、土曜日夕食時に飲んだのが最後か。昨日と今日は飲まなかった。きっと、明日も飲まないだろう。この状態で飲んだら、恐らくひどいことになりそうだと思うからだ。 

水曜日も飲まない。と言うのは、仕事を終えてからあることをやろうと計画しているからだ。他愛もないことだけれど、ちょっとやってみたいことがある。木曜日も夜勤を控えているので飲まないだろう。土曜日の晩はちょっとした集まりに参加しようと思うから、そこでは飲まないだろう。危ないのは金曜日か。その日を乗り切ると、一週間の断酒ができるわけだ。ちょっと頑張ってみようかと思う。 

 僕には僕の生きている現状というか状況があり、他の人にもそれぞれその人の状況や現実がある。クライアントさんたちと会っていると、いろんな世界があるのだなと感動する。世界は一つではないなとそういう時は思う。客観的には一つの世界があるということになるのだろうけれど、人の数だけその人の生きている世界があるものだと思う。 

 僕はこのブログで僕自身の生活を綴っている。誰も興味を持とうとは思わないことばかりだと思う。別に読まれなくてもいい。日記なんて、人に読んでもらうつもりで書くものじゃないだろう。その日のこと、その時々のことを、ただ思い浮かぶままに書く。僕がしているのはそれだけだ。 

 僕は自分の人生をなんとかしてまっとうしたい。偉人にならなくとも、有名人にならなくともいい。無名の誰かであっていい。最後まで生きる。いつか、死でもって僕の人生は終わる。けれども、死は最終の状態でも、最悪の状況でもないと僕は信じている。もちろん、死後の世界など信じていないし、そういうことを述べているのでもない。生は死で終わるが、死は生のゴールでも目標点でもない。死を最終到着地点のように考えてしまうと、人間は死ぬために生きるという背理を信じなくてはならなくなる。そうではない。本当の終わりは、生きながらにして生きなくなることだ。死の状態で生きるということだ。それこそ生の反対であり、死に対しても反義語なのだ。生きながら、生きていないという生き方、そこに居てそこに居ないという生き方、僕はそれこそ恐れる。 

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

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