6月21日:幸福度
昨日、僕は自分の人生を50歳でまっとうしたいと書いた。これは何も50歳で死ぬという意味ではない。もちろん、50年生きられたら十分である。でも、だからと言って、50歳で命を絶つつもりはないし、それ以後も生きられるのなら精一杯生きたいと願う。50歳を一つの区切りとしたいのだ。
それまでに僕は幸福になる。幸福というのは曖昧な表現で、何を持って幸福と見做すかは人それぞれの価値観によって違ってくるだろう。僕は僕の価値観でもって、幸福を定義するけれど、それはここでは述べない。ただ、幸福になるということだけを宣言したい。
自分が幸福でなければ他人の幸福は願えない。僕はそう考えている。例えば、もし幸福のレベルが1から10まであるとして、僕が今5の段階にいるとしよう。
レベル5の僕はレベル3の人の幸福を願うことはできる。その人を援助して同じ5くらいのレベルまで幸福になってもらうこともできる。でも、その人がそれ以上に幸福になったら、人はそれ以上その人を助けたいとは思えなくなるものだ。嫉妬する人もあれば、自分より幸福になった人を引きずり下ろしたくなる人もあるだろう。人間とはそういうものなのだ。
だから、幸福であればあるほど、僕は多くの人を援助できると信じている。幸福をそれほど感じていない人が援助職をするのは難しい。
よく、クライアントは自分が親よりも幸福になっていいのだろうかという不安を表明される。いいのです。自分の幸福度の程度に応じてしか、人の幸福は願えないのだから、クライアントが幸福になればなるほど、その人は自分の親の幸福をも願えるようになるものだ。
幸福度の低い人が同じく幸福度の低い人と結婚したり、一緒に暮らしたりしているのを僕は知っている。本当に不幸なことだ。お互いにそれ以上の幸福があるということに気づかない。そして、低い幸福度に甘んじて、人生ってこんなものかとか、俺たちってこの程度だよななどと言いあっていたりする。それは間違いなのだ。お互いに幸福度が低いから、お互いに相手の中にそれ以上の幸福が見いだせないから、それ以上の幸福があるっていうことが見えないのだと思う。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)