<#004-10>ファースト感情体験
(ファースト感情体験)
カウンセリングにおける点と線と題して論を展開しています。すでに二種類の線を見て来ました。一つは時間的継起の線であり、もう一つは本質的・象徴的線であります。以後、この両者に関する諸テーマを取り上げたいと思います。
本項では、時間的継起の線に関連するものであり、「ファースト感情体験」と私が呼んでいる概念を述べようと思います。
ファースト感情体験とは、ある出来事が生じて当人に最初に体験される感情という意味であります。まずは分かりやすい(と私が思う)一例を挙げることにします。
(一男性クライアントの経験より)
クライアントは男性でした。ある時、彼は非常にみじめな気持ちで来たと報告します。何があったのでしょう。
彼は電車でここまで来るのですが、その日はどういうわけか車内が満員だったのです。彼はつり革をつかんで立っていました。途中の駅から乗り込んできた男性が彼の隣に立ったのですが、その際に、その男性が彼の足を踏んづけたというのです。
彼は隣の人から足を踏まれていることに気づいていますが、隣人は自分が人の足を踏んでいるということに気づいていないようです。
彼は隣人に何か言おうと思ったのですが、チラッと見ると、それがちょっと怖そうな男性でした。彼は何も言えず、そうして、下車するまで足を踏まれたまま過ごしたそうです。たまたま下車する駅がその男性と同じであったので彼は解放されたのでした。その時には彼はすっかり惨めな気分になっていたのであります。
そういうエピソードを語られたのであります。なるほど、足を踏まれてもそのことを言えず、ずっとガマンして過ごしてきたことは分かります。でも、なぜそれが惨めな気持ちに発展したのでしょう。今一つそのつながりが見えてこないのであります。
そこで私たちは時間継起を辿って、その一連の流れを再構成することにしました。以下はその要約であります。
(1)彼は足を踏まれます。
(2)彼は足を踏まれたことに気づいているが、相手は気づいていないことが分かります。
(3)彼は「困ったことになったぞ」と思い、相手にモノを言おうとして、相手を見ます。
(4)相手がちょっと怖そうな人であると彼は認知します。
(5)こちらが何か言って、相手がキレたらどうしようなどと彼は考えます。
(6)そう思うと、怖くなって、相手の神経に触れないようにしようと思います。要するに自分がガマンする方向へ向かうわけです。
(7)人の顔色を見て言いたいことが言えなくなるという状況が、彼にさまざまなことを想起させます。自分はいつもこうだった、あの時も言えなかったし、この時も言えなかった、などなど思い出します。
(8)彼が下車する駅が近づいてきます。高槻の駅です。そこで降りなければならないのに、どうしようと思う。つまり現実的な問題に直面します。
(9)下車駅が近づくほど、彼は落ち着かなくなってきます。何も言わずこのままでいれば、下車駅を通り越してしまうかもしれない。でも、思い切って訴えるには相手が怖そうだ。この葛藤に居ても立っても居られない気持ちになります。
(10)彼はそれとなく踏まれている方の足をもそもそと動かして、相手に気づいてもらおうとします。それでも相手は気づかないようである。万策尽きた思いがしたようであります。
(11)いよいよ下車駅に到着。思い切って飛び出そうとしたところ、相手もその駅で下車したので助かった気持ちになる。
(12)しかし、その解放感は束の間であって、次には惨めな気分が復活してきたのでした。
非常に大雑把ですが、そのような経緯があったようであります。こうして見ると、そこに一連の感情の流れがあることが見て取れるのでありますが、それでも欠落している部分があるのです。
欠落している箇所は他にもあるのですが、ここでは一点だけ取り上げます。彼は一番最初の感情体験を述べていないのであります。つまり、(1)の次に来るもので、(2)よりも先にある体験であります。(3)以降は、こう言ってよければ、どうでもいいのであります。
つまり(1)と(2)の間には飛躍があるのです。そこが線でつながっていないのであります。彼が最初に体験したことがあるはずであります。
これは単純なものでありまして、「痛い」ということであります。足を踏まれて最初に体験するのは「痛い」という感情体験であります。彼はそこを飛躍させて述べているのであります。
この「痛い」がファースト感情体験ということになるわけですが、私の見解では、ファースト感情体験は自他に無害なものであるのです。もし、彼が足を踏まれて「痛い」と言えば、相手は謝ってくれるかもしれないし、足をどけてくれるでしょう。この最初の感情体験である「痛い」を彼は無視してしまっているので、後の惨めな感情体験が生まれることになったと考えられるのであります。
(感情に気づくことは難しい)
よく「自分の感情に気づきましょう」みたいなことを言う臨床家の先生をお見かけするのですが、私はそれはそんなに簡単なことではないと考えています。また、自分の感情は自分がよく分かっていると言う人もお見かけするのですが、その人の言うことには間違いがあると私は考えています。
私の見解では、自分の感情に気づくとは、ファースト感情に気づくということであります。しかし、それはほんの一瞬の体験であり、事例の彼のように後から後から別の感情が生起して、それらが最初の感情に覆いかぶさるので、大抵の人はそれが見えなくなると私は考えています。そして、最後の感情だけに気づく、あるいはより意識された感情だけに気づくということになってしまうのだと私は考えています。事例の彼で言えば、惨めな気分というのがそれに該当するわけであります。
この男性は自分が不当に無視されるとか虐げられるといった訴えをしていました。半分は彼の思いこみであり、半分は事実であるといった感じなのですが、上記の例はその辺りの事情を示唆するものでもあるように思います(これは本質的・象徴的線になります)。
彼は痛い思いをしても痛いとは言わない、もしくは痛いということに自分でも気づかないのだとすれば、周囲の人にそのことを伝えることがなくなるでしょう。周囲の人は彼が痛い思いをしているとは知らないことになるので、彼からすればそれは無視される体験と映り、迫害されているといった感情が生まれることになるのだと私は思います。
(ラスト感情)
事例の彼のこのエピソードにおいては、「痛い」というのがファースト感情体験であり、「惨めだ」というのはラスト感情体験であると言えるでしょう。最後に行きついた感情ということでラストと称しておくことにしましょう。
このラスト感情に取り組んでも不毛な作業に終わると私は考えています。このラスト感情をいくら追及しても、大したものは見つからないと私は信じています。大部分のクライアントはこのラスト感情を問題視するのであり、それだけを語るので話しても何もならないのであります。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)