<#004-8>カウンセリングにおける点と線(1)
(話してもなにもならない)
カウンセリングに関しての論述を続けたいと思います。
前節では「カウンセラーは話を聴くもの」という通説、並びに「話すとラクになる」という通説を糸口にして論を展開しました。本節では「話してもなんにもならない」という通説を取り上げることにします。
せっかくカウンセリングを受けたのに「話しても何もならなかった」との感想を述べる方もけっこうおられるようであります。私のクライアントにもそういう方々がいらっしゃるのです。彼らがどういうことを期待していたのか、人それぞれあると思うのですが、そこは今は度外視しておきたいと思います。
いずれにしろ、その人たちは話しても何もならなかったという体験をされたのであります。ただ、話しても何もならなかったのではなく、何もならない話をその人たちはしているのであります。その辺りのことを説明しようと思います。
その前に、私たちの体験や記憶に関して「点」と「線」の比喩を用いたいと思うので、そのことを先に述べることにしましょう。
(発話における点と線)
私たちは途切れることなく生を営んでいます。今体験していることは、さっきの体験から連続しており、一つの体験から次の体験へと連綿と続いていきます。こう言ってよければ、私たちの体験は「線状」に続いていくのであります。
しかしながら、私たちはこの線をすべて記憶しているわけではなく、後になって想起する時には点として思い出すのであります。
一つ、例え話をしましょう。二人の仲良し女性が京都旅行をしたとしましょう。彼女たちは清水寺を観光し、後に嵐山へ行ったとしましょう。
(点)彼女たちは清水寺に向かって坂道を歩いています。
(線)坂道を歩いていると疲れてきたので、
(点)一軒のお茶屋さんに入って休憩しました。
(線)疲れが回復したので、彼女たちは再び歩き始めました。
(点)清水寺に到着して、舞台に上がりました。観光客が多くて窮屈でしたが、舞台から眺める景色はとてもきれいでした。
(線)清水寺を後にして、今度は坂道を下りますが、往路では余裕がなかったので、
(点)みやげもの屋さんに入りました。いろいろ見て回り、いくつかおみやげを買いました。
(線)駅へ向かいます。電車に乗り、嵐山へ向かいます。
(点)嵐山に到着。渡月橋を渡りました。
(点)みやげ物屋さんもたくさんあり、何軒か入っていました。
(線)清水寺で買い過ぎたので、ここでは見るだけで何も買いませんでした。
以下、省略
話を簡略にするために、すでにあらかじめ点と線とが記入してありますが、仮に10年後、彼女たちがこの時の京都旅行の思い出を話すとしましょう。点の部分はまず記憶に残っており、彼女たちの会話に現れるエピソードであります。しかし、線の部分は記憶になかったり、あやふやになったりするでしょう。
例えば、清水寺へ上がる坂道を歩いたことは覚えています。お茶屋さんに入ったことも覚えています。しかし、どうしてそのお茶屋さんに入ることになったのかは覚えていないかもしれないし、「あなたがあのお茶屋さんに入りたいって言ったんじゃなかったっけ」などと言うかもしれません。本当は歩いてきて疲れたというだけだったのであります。
清水の舞台に上がったということは二人とも覚えているでしょう。一方は観光客が多すぎて窮屈だったわと言うかもしれません。もう一方は舞台から見た景色が素晴らしかったわよと言うかもしれません。これはどちらも正しいのであります。同じ場面を体験していながら点として記憶されている部分が異なるだけであります。
清水寺を後にして坂道を降りていきます。みやげ物屋に入ったことも覚えているでしょう。でも、なぜみやげ物屋さんに入ることになったかはあやふやになっているかもしれません。欲しい物があったから入ったということになっているかもしれません。本当は往路では坂道を上がるのに一生懸命でそんな余裕がなかったというだけであります。
そこから駅について嵐山に向かいます。特に記憶に残るようなことがそこで生じなければ、電車で移動したという記憶はあっても、それ以上のことは何も印象に残らないかもしれません。
彼女たちは嵐山に行きました。これも記憶に残っています。清水寺に行き、嵐山へ行ったのです。しかし、場合によっては、どちらが先だったかが曖昧になることもありえるでしょう。清水寺に先に行ったのか、嵐山に先に行ったのか、あやふやになってしまうことだってあるかもしれません。
嵐山でもみやげ物屋さんに入りました。ここでもおみやげを買ったと思い込んでいるかもしれないし、買い過ぎたのは嵐山の方だったと間違って信じているかもしれません。実際は清水寺で買い物しすぎたので嵐山では控えたというだけのことだったのですが、どっちがどうだったか曖昧になっているかもしれません。また、嵐山では何も買わなかったことは覚えているのだけれど、どうして何も買わなかったのか、その理由が思い出せないというようなことも起きるかもしれません。
まだまだ続けることができるのですが、これくらいにしておきましょう。
(体験は点として語られる)
このことはつまり、私たちの体験は連続的でありますが、自分の体験を話す時、あるいは思い出す時は、体験を「点」として話したり、思い出したりするということであります。
その「点」となる体験とはどういうものでしょうか。それはその人にとって記憶に残る類の体験であります。印象深かったり、何か特別なことが起きたりして、特に記憶に残っているといった場面であります。
一方、「点」と比べると、「線」となってしまうのはどこか周辺的な体験であることが多いのでしょう。特筆すべきところ、印象に残るところなどが少ないのでそうなってしまうのかもしれません。
点と点とをつなぐ「線」の部分は、記憶が曖昧であったり忘却されていることもありますし、他の場面の記憶と混同することもありますし、まったくの空想で埋めあわされているということもあります。そこは「点」の部分ほどしっかりしたものではないのであります。
(点しか考えないので行き詰る)
さて、カウンセリングで話しても何もならないと言う人もおられるのでありますが、それは事実そうなのであります。その人にとっては話しても何もならなかった体験となったのであります。
クライアントたちは「点」しか話さないからであります。通常の会話とかお喋りではそれで十分であり、差支えもないのであります。それと同じような感じでカウンセリングでもお話しなさるのであります。どのクライアントも最初はそのようにしか話さないのであります。
カウンセリングでは(私の考えるところでは)、もう少し踏み込んで、点と点をつなぐ線の部分も考えていこうとします。
クライアントたちは自分の抱える問題について対処してきており、それについて考えてきたという歴史を持っているものであります。私の印象では、彼らは問題となる場面(点)だけで考えているので行き詰るのであります。点だけを考えるのであります。線となる部分は、あまり意識化されていなかったり、「それは関係がない」などと排除されていたりするのであります。
一つの体験を繰り返し語ったり、あるいは丹念に記憶を探っていくと、線の部分が自ずと見えてくる場合もあります。線の部分が見えると、それは「気づき」とか「洞察」と言われる体験に近づくことになるのであります。
(本項まとめ)
本項では体験における点と線ということを考えました。二人の女性の京都旅行という架空の例を用いて、どういうことが点となり、何が線となりうるのかということを取り上げ、後に語られるのは点の部分だけになってしまうということを述べました。おそらく、これは経験的によく理解できるのではないかと思います。私たちが日常的にする会話は点の部分だけを話しているのです。線の部分は、省略されているものであります。クライアントもまたそのように話されるのであります。
さて、私はもう少し点と線の話をすることになります。今回述べたこととはもう少し異なる性質の線がありますので、次項ではそれを述べたいと思います。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)