5月5日(木):絶対の探求
絶対の探求。バルザックに同名の小説があるが、言うまでもなく、僕の書くものはバルザックとは関係がない。
今朝のワイドショーで「Z世代」の人たちのことを言っていた。2000年以降に生まれた人たちの世代で、現在20代前半くらいまでの人たちのことである。
この世代は生まれた時からSNSがあって、そういうものに囲まれて成長してきた。彼らはネタバレOKで、結末を知ってから作品を鑑賞し、映画や動画などは倍速で観るという。時間を節約したいからだそうだ。
いろいろなことがテレビでは言われていたけれど、詳細は省くとしよう。僕のクライアントでもそういう人がいる。ユーチューブなどの動画を延々と見続けるといった人だ。
僕が思うに、動画を見るのはいいのだけれど、それだけの数を見るとなると、あまり良さがわからないのではないかと思う。映画も二倍速なんかで観たら、その作品の良さが半減してしまうのではないかと思う。でも、彼らは「いい」と体験しているようなので、不思議な思いに駆られる。
仮に100本の動画を見たとしよう。中には当たり外れもあるかもしれないけれど、その人曰く、どれもそれなりにいいそうである。なるほど、たくさん鑑賞して、どれもそれなりに良かったり面白かったり感動したりするのであれば、それはそれでいいじゃないかと言う人もあるかもしれない。
僕はそれに「ちょっと待った」をかけたい。どれもがそれなりにいいというのは、どの作品も相対的に良いところがあると言っているに過ぎないのである。これはこの程度の良さがある、あれはもう少し良い、それは今一つなところもあるけれど少しは良い、などと相対的な「良さ」を堪能しているということではないだろうか。僕はこれを「相対主義」と呼びたい。
相対主義などと名付けても、言うまでもなく、相対性理論などとはまったく関係がない。僕の言うことはそこまで高尚ではない。
この相対主義は、初心者には望ましいかもしれない。映画を例にしよう。その人は名画や名作、話題作や人気作を片っ端から観るようになるかもしれない。そしてどれもそれなりに良かったといった評価をするかもしれない。
悪しき相対主義はそこに留まるのである。どれもそれなりにいいし、それなりに感動するし、それなりに話題についていけるといった所に留まるのだ。絶対にこれがいい、という絶対の探求に踏み出さないのである。
絶対にこれがいいという作品に出会ったとしたら、もう他の映画は鑑賞することがなくなるだろう。あるいは他の作品に割く時間は大幅に削られるだろう。その一作があれば十分であり、ひたすらその一作を追及するというようなことをするだろう。この絶対の探求がその人の個性につながる。あるいは、こう言ってよければ、それがその人のライフワークとか生きがいとかにつながっていくと思う。その絶対的な作品に絶対的な価値を帯びるので、他の作品や他の事物の価値が低下することだろうと思う。
では、絶対の探求はどこからどうして始めるのか。相対主義というのは、ある意味では受け身的であり、どれもがいいと評価することで決定を回避しているところがあると僕は考えている。作品を受け身的に受け取り、受け身的に感情体験をし、それにも良いところがあると評価することで決定的なことを言明することを回避できるのである。
絶対の探求はそこから一歩踏み出すのである。それは相対主義と比べてより積極的であり、より自己関与的である。作品を受けとるのではなく、作品に踏み入っていくのである。その世界に乗り出していくのである。そして、積極的に価値や意味を発見していくのである。それに関われば関わるほど、新しい発見があり、飽きることがないのである。この探求は終わりがないのである。
若いクライアントたちは、自分がどう生きていいかわからないとか、何をしたらいいのかわからないなどと訴える。彼らはそれほど深刻ではないのである。というのも、彼らの述べていることは要するに相対主義なのだ。あの生き方もいい、この生き方もいい、その生き方もいい、どれもいいから迷うわけである。これが絶対にいいという生き方、つまり絶対の探求に乗り出せないのである。仕事などもそうである。あれもできる、これもできる、それもできる、あるいはこれもしてもいい、あれもしてもいい、それもしてもいい、それで決定できないのである。あれこれできることがあっても、絶対にこれをするという、やはり絶対の探求に踏み出さないのである。彼らは相対主義に留まっているのだ。
絶対にこれがいい、この絶対の探求に踏み出していってほしいものだ。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)