2月1日(水):「家族」の死
慌しい一日を過ごした。このところ毎日そんな感じである。
今日は、朝のうちに家のことをして、昼頃職場入りして原稿を4ページ分ほど作成する。夕方頃には職場を後にしてバイトの工場に向かう。23時まで工場でバイトして、一時間かけて歩いて帰宅。夜中2時ころまで勉強して過ごし、最後にブログを書い残しておく。ブログにかける時間は15分と決めている。今日は時間との勝負だ。
慌しいとそれが今日だったのか昨日のことだったのかあいまいになることがけっこうある。
いつだったか(今朝だったかもしれないし昨日の朝であったかもしれない)、テレビで子供を支援する人を紹介していた。その人が言っていたな。子供を支援していますと言うと、「どこの国の子供?」と聞かれるそうだ。それが日本の子供だと答えると驚かれるという。一般の人の感覚とはそういうものだ。いまだに日本は平和な国だと信じている。ある意味で純朴な人たちだ。
日本の子供たちでも飢えている子は多い。おそらく公表されている数字以上の数になると僕は思っている。そういう子供たちに食事や居場所を提供してあげるというのはとても有意義な仕事である。僕は頭が下がる思いがする。
ただ、それは国がしなければならないことだとも思う。僕がその活動をするなら国を動かす方に力を入れたいと思う。
子供が飢えるのは、もはや家族という概念が失われているからである。
そもそも現代の日本人の生活様式は多様である。まず独り身の人たちがいる。独身の人だけでなく、バツイチになって独りになったという人もここには含まれるし、家族と死別して独りになったという人も含む。
次に夫婦だけの人たちがいる。子供がいない夫婦である。この中には子供を欲しくても授からないという人たちもいれば、最初から子供を持たないという夫婦も含まれる。
三つ目にいわゆる核家族の様式がある。夫婦と子供がいる家族である。この形態が家族の核をなしているということだ。
四つ目に片親と子の人たちがいる。シングルマザー、シングルファーザーといった人たちだ。配偶者と離婚してそうなった人もあれば、配偶者と死別してそうなったという人も含まれる。
これら4種の形態のうち、家族と呼べるのは三つ目のものだけである。確かにこれは厳密に言えばという意味である。最初の独り身以外のすべてを家族とみなしても差支えはないかもしれないけれど、家族の概念に照合すると家族と称することのできるのは三つ目だけということになるわけだ。
もし、四者の数が等しいと仮定すれば、家族は全体の25%しかいないということになる。他の75%は家族を形成していないということになるわけだ。僕にはもはや家族概念は失われていくようになるだろうと、そのように思われてくるわけである。
もちろん、これは僕の個人的な見解に過ぎない。僕はそう思うので家族療法なんかやってなんの意味があるのだろうと思ってしまうのだ。25%の人のためだけの治療法じゃないか、などと思ってしまうわけだ。
さらに、その25%しか占めない家族のうち、どれくらい崩壊寸前の家族がいることだろうかとも思う。今でこそ家族を成しているけれど、いつ家族がバラバラになってもおかしくないっていう状況でかろうじて成り立っている家族がどれほどいるだろうか。資料がないので僕には分からないけれど、相当な数がおられることだと思っている。
こうして見ると、25%のうちの半数程度がまともに家族を形成しているということになるのかもしれない。日本(に限らないかもしれないが)では「家族」は死んだ。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)