5月28日:書架より~『ドリアン・グレイの肖像』

5月28日書架より『ドリアン・グレイの肖像』ワイルド 

 

 本書を読むのは何度目だろうか。既に三回ほど読んでいる。読むたびに学ぶところや得るところのある作品だ。 

 僕は思う。人間の自己愛について考えようとするなら、ドリアン・グレイをまず研究してみるといい。ドリアンの言動の一つ一つに自己愛が感じられるように思う。 

 

 物語はこうだ。美貌の青年ドリアンが年と罪を重ねるにつれて、その肖像に齢と悪の容貌が刻まれていく。ドリアンは永遠の若さと美を得たのであるが、それに引き替え、肖像の方が若さと美を失っていく。 

 この逆説は、ドリアンを感化した逆説のヘンリー卿にも通じるところがあるように思う。 

 第2章で、ドリアンは自分から失われていくものを嘆く。その嘆きは何度読んでも痛々しい。 

第4章にて舞台女優でドリアンの婚約者となるシビル・ヴェインが登場して、物語が一気に緊迫感を帯びる。不幸な境遇のシビル(第5章)はようやく得られた幸福に酔い、演技に身が入らない。その演技を見てドリアンは深く失望し、シビルとの婚約を破棄する(第7章)。 

第8章はその翌日の描写である。ドリアンは昨夜のことを考える。その後、ヘンリー卿からシビルの自殺を知らされる。ヘンリー卿の説得もあり、二人はクラブに行く。ここから肖像が変貌し始める。この章のドリアンの思考や行動は自己愛性の病理を抱える人によく見られるものである。 

 ドリアンは肖像を屋根裏部屋へしまう(第10章)。ドリアンは自分の強すぎる自己愛の故に、本当の自分の姿を見るに耐えないのだ。物語はここで前半を終える。 

 第11章からは物語のいわば第2部の開始である。あれから数年が経ている。ドリアンは世界のさまざまな美術品や珍しい骨とう品などを収集する。この収集にも心理学的には意味があるのだが、物語には直接関係がなく、いささか退屈する章だ。 

 どういうわけかドリアンと関わる者は不幸になっていき、ドリアンは社交界で孤立してしまっていた。それを心配したバジル(肖像画の作者)がドリアンを訪れる。ドリアンはバジルに彼の秘密を明かす。あの肖像画を見せる。そして、秘密を知ってしまった以上、バジルは生かしておくわけにはいかなくなった。ドリアンはバジルを殺害してしまう(第12,13章)。そして、旧友のアランにバジルの死体を始末してもらう(第14章)。 

 堕落していくドリアン。そこにシビルの弟のジェイムズ・ヴェインが現れ、ドリアンを殺そうとする(第16章)。それ以来、ドリアンは異常なほど死を恐れるようになる。ジェイムズはドリアンを狙うが、猟の最中に誤って撃たれてしまう。ジェイムズの死に顔を見てドリアンは満足する(第18章)。 

 続く第19章は、僕から見ると、物語のクライマックスだと思う。第20章でドリアンが肖像画の自分を抹殺する場面の方が劇的だけど、僕はこの第19章の方が好きだ。ここではドリアンは善人になろうとしている。過去の罪を告白しかけている。それがうまくできないでいる。その心の動揺が、ドリアンの言動だけでなく、彼の連想や彼の弾くピアノにも現れている。 

 そして、最後にドリアンは彼が否認し続けていた方の自分、より本当の自分である肖像画を抹殺する(第20章)。 

 ユング派の人なら、この物語を影と影との対決といった文脈で読むかもしれない。ドッペルゲンガ―とか多重人格の文脈で読む人もあるかもしれない。いろんな読み方ができるだろうと思う。でも、僕はどうしてもこれを自己愛の物語として読んでしまう。それも悲しいほどの自己愛だ。 

 いつかドリアン・グレイについてもっと研究してみたいと思っている。なぜヘンリー卿に感化されたのか、ドリアンにとってヘンリー卿はどういう存在であるか、なぜバジルは死ななければならなかったか、なぜシビルのような女性を婚約者に選んだのか、なぜ周囲の人たちが不幸になっていってしまうのか、なぜドリアンは孤立しなければならず、堕落しなければならなかったのか、他にいくつものテーマがここにはある。いつか詳細に論じてみたい。本作は、僕にとっては、そういう創作や研究の意欲を掻き立てる作品でもある。 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

 

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